屋上での勉強会が始まってから一週間経った。初めから言っていた通り竜一とは勉強よりも雑談に時間を費やした。ちゃんと二人の間にノートをおいていいるけれど、書かれるのは何ら数学と関係のない言葉だったり絵だったり。けれどそれを消すことはせずに気がつけば数ページに渡っている落書きに気付く。たまに真面目に問題を解いていると横から覗いていた横顔はすぐに消えて、わからなくなって質問しようとすると大抵は眠っていた。
 いつだっただろう、絵理花が彼の恋心に気付いたのは。初めは特に意識していなかったけれど、ある日気づいてしまった。ある看護士が顔を見せると、彼は決まってそれまで浮かべていたのとは全く別の種類の笑顔をその人に向けるのだ。それは発作の時よりももっと強く絵理花の胸を締め付けた。


「わたしって、魅力ないのかなぁ?」

「はっ!?」


 思わず口から洩れた呟きは絵理花本人ではなく、そのベッドに腰掛けてゲームをしていた幼馴染を驚かせた。小児病棟ではまだ男女の差はさして気になるものではない。特に絵理花たちのように自宅よりも入院生活のほうが長い子供たちにとっては病棟の子は兄弟同然。年の近い同じ病気の子供がいなかったこともあり、絵理花と宮本大樹は暇になれば理由もなくお互いの病室を訪れる。特に会話もないけれど、同じ病気の分不安も何もかも半分こできる相手はお互いしかいないと無意識のうちに学んでしまっている。
 いくら兄弟同然と言っても中学生にもなれば異性に興味が出るのは当たり前のこと。唐突に真顔で聞いてきた絵理花に大樹は心臓がドキドキしてしてそれまで騒がしく動いていた手が止まった。


「年上のおばさんよりも若い方がいいよね!?」

「はぁ……?」

「やっぱりわたしって魅力ない?」


 質問の意味も回答もさっぱり見当がつかなくて、大樹は唸るように何がしかの声を発して黙ってしまった。どうせ自分がドキドキするようなことじゃあないだろう。それに、どんなに夢想したところで自分たちはこの白い箱庭から出ることは叶わないのだから。この守られた籠の中で死を待つだけの存在であると気付いたのは、一体いつだっただろう。そしてそれは当然に絵理花も知っていることであるはずだ。それなのに、彼女は夢を見てしまった。
 大樹の沈黙を無視して絵理花は考える。彼に好きになってもらえる方法はないだろうか、と。


「でも毎日会ってたら、好きになってくれるんじゃあないかなって思うんだよねぇ」


 その言葉の矛盾に自分で気づいているのだろうか、この少女は。そんな人間は今まで掃いて捨てるほどいたことを大樹は忘れない。
 あれは小学校に上がったばかりの頃だっただろうか、同じ病棟に骨折で入院した子が来た。当時その子は六年生で、まだ幼くこの小さい世界の外にまだ世界が広がっているなんて考えもできない絵理花と大樹と毎日のように遊んでくれた。親切にしてくれた彼女を絵理花も大樹も実の姉のように慕っていた。実際ここに長期入院している子供たちはみんなそんな意識で、今は大樹が兄ちゃんと呼ばれる存在になっている。そうして、幼い子供たちはみんな頼ってくる。それこそ、肉親のように。けれどある日、彼女が看護士と話しているのを偶然聞いてしまった。
 それはナースステーションの傍だった気がする。診察が終わった彼女を迎えに行ったときに、聞こえてきた言葉。

『毎日絵理花ちゃんと大樹君と遊んでるんですって?優しいのね』

 何の含みのない看護士のその声は、ただ仲の良い兄弟を褒める近所のおばさんのようだと、実際は見たこともあったこともないけれどテレビの中で見たイメージで思った。そうして返す彼女の言葉は「そんなことないですよ」だと信じ切っていた。あの子と遊ぶのが楽しいからとか、そんな言葉が出てくると純粋に信じていた。それなのに、その予想は無残にも打ち砕かれた。彼女の良心によって、ぐちゃぐちゃに。

『だって、可哀相じゃあないですか』

 その言葉は彼女が本心から思って発したやさしい言葉だったと、今ならわかる。けれど当時の大樹たちは憐れみだとかそういう感情を向けられることに慣れていなかった。自分よりもひどい病気も軽い病気も揃っていたけれどそれで優越に浸ることなんてなかった。軽いとか重いではなく、みんながみんな一生懸命生きていることを知っていた。初めて向けられた同情はひどく心をえぐり、そうして決めた。誰にも同情なんてされたくないから、誰にも期待しないのだと。絵理花と指切までしてあの時は向けられた裏切りにも似た憐憫に耐えた。
 それを忘れて、絵理花は相手のに期待している。きっと失恋の痛みと裏切りの痛みは似ているんじゃあないかと、大樹はいつからか思うようになった。それはどちらも、期待をしていたから起こるのだ。


「忘れたのか?」


 あの日のことを。夢見がちに、もしも付き合えたらデートはあそこに行きたいだとか言いだした絵理花に釘を刺した。それは自分で思っていたよりも低い声になってしまい、口を噤んでしまった彼女から思わず顔をそらす。ゲームの画面はさっき手を離してから進んでいない。ゆっくりと胸の前で組んでいた指を離してこぶしを作り、浮かれていた表情がそぎ落とされたように絵理花の顔が無表情になる。そうして何もかも諦めたあの眼をして、静かに首を横に振った。忘れてなんていないよ、と。およそ感情を伺えない、悲しみすらない表情のなかで瞳だけが僅かに悲しそうに布団の模様を映している。


「忘れてなんて、いないよ」


 静かな声だった。少しさみしそうな色の混じったそれに問うたこちらの方が動揺してしまう。けれど分かったのは、彼女が何も勘違いなどをしていないし忘れてもいないこと。すべてを理解した上でなお、甘い砂糖菓子のような夢を見ようとしている。恋がしてみたかったのと言って浮かんだ微笑はおよそ同じ年頃の少女が浮かべるようなものではなく、しいて言えば死の間際の人間が浮かべるような達観しつくしたそれに見えた。反射的に、やばいと思った。


「だったらなんでだよ!?」


 どこかに行ってしまいそうな少女を引き留めたいがための一心で思わず声が怒鳴り声になった。びくっと目を見開いて硝子玉に大樹を映した絵理花は、すぐにまた人形のように微笑を浮かべる。そうしてから、急に感情が戻った子供のような表情ですべての感情を噴出させた。ヒステリーのように高い声で、先ほどの大樹よりも大きな声で当たり散らす。


「初めてだったんだもん!あんな絶望した人みたの!今にも死にそうな人、見たことなかったんだもん!!」

「ちょっ、落ち着けよ!」

「おんなじだと思ったら好きになっちゃったの!わたしだって嫌だよ、もう嫌なの!!」


 ヒュッと、絵理花の喉が嫌な音を立てた。同時に見開かれた眼に大樹の背筋が凍りつきそうになった。胸を鷲掴んで体をくの字に折り曲げるその様を何度見ただろう、何度同じことを自分でやったのだろう。鼓動を図るように短く吐き出される息にはやはり奇妙な音が混じる。発作だ。反射的に大樹の手がナースコールに伸びた。
 絵理花の体を抱き抱えてそれ以上何も起こさないようにきつく抱きしめながら、早く早くと心の中で叫ぶ。どれだけ発作が苦しいのかを大樹は知っているし、自分ではどうにもできないことであることも分かっている。だから、涙が出た。この爆弾を抱えた体で絵理花も分かっていただろう。自分の体では、外に出られないことを。だから、夢を与えてくれた人に憧れを抱いた。


「絵理花ちゃん!?大樹どいて!」


 飛び込んできた看護士は、すぐに絵理花の異変に気付くと大樹を突き飛ばすように押しのけて処置を開始した。のろのろと立ち上がってそれを茫然と見ていたら、唐突に気づいてしまった。絵理花と大樹の間にすら壁はある。だからきっと彼女が恋をした男との間にはとてつもない壁があって、それが今は透明なんだけなんだ。だから壁がないのだと誤解して近づいた。壁の存在に絵理花が気付いたのは恋をしてからだろう。でなければもっと早く引き返してきたはずなのだから。
 それから絵理花がベッドに戻ってくるには二日かかった。その間に屋上に行ってみたら、たしかに向こう側の人間が空を見上げ撃ち落とされた鳥のように空を見上げて立っていた。まるで、空のどこかに壁があって上がれないのを恨むかのように、左右太さの違う足で立ち竦んでいた。










 主治医に聞かされた本来ならば喜ぶはずの事実。ただそれは心のどこかに漠然とした落胆を落とした。分からない振りをしているけれど理由は分かっていて、本気であの人が好きだった。だから退院することは唯一の繋がりを絶ってしまうことと変わらないから退院したくないと、僅かに思う。喜ばなければいけないと思うほどに思えなくて、連絡した友達の喜びようになんだか落ち込んだ。
 何も考えずに、俯きそうになったから空を見上げた青かったはずなのに、気がついたら空はオレンジに染まり沈んでいく太陽の横に星が光っている。あれは何と言う星だったか、中学の時に授業でやった気がするけれどその頃も陸上に明け暮れていた。昔から気落ちしたりしたら空を見上げたら少しだけ気が楽になる。きっと空があまりにも広いから、自分がちっぽけな存在に思えてそのちっぽけな悩みは霞んでしまう。


「退院おめでとー!」


 静かな屋上に飛び込んできた一つの声に、心臓がドクンと跳ねた。まるで新記録を打ち立てた空から降りたような、純粋な興奮と緊張の混じったそれに似ている。
 入ってきたのが美紗だと分かり振り返ろうとしたが、彼女の姿を見る前にシューッとあまり日常で聞くことのできない音と一緒に勢い良く飛沫が飛んできて液体が降ってきた。あまりにも予想外すぎて一瞬にして固まった。


「夕食の時間だぞ」

「……冷て」


 まず感じたのが、着ていたジャージが冷たくなったこと。思ったままに呟いて、その次に認識したのは少しばつが悪いような表情をしてコーラの缶を持ったまま立っている美紗だった。なんと反応していいのか分からずに言葉を探していると、先に彼女の口が「避けるかと思ったのに」と何とも自分本位な言葉を発した。そんなことができるわけがない。
 その言葉を聞いただけでもうなんだか体から力が抜けて、何も言う気がなくなった。とりあえずコーラ臭いジャージを脱いで少し寒いけれどTシャツ一枚で我慢。その間に彼女は隣に腰を下ろして開き直ったて笑った。謝る気は無さそうだ。


「あんまり嬉しそうじゃないね」

「コーラかけられて嬉しい変態じゃねぇし」

「そっちじゃなくて!」


 本当は彼女が何を言いたいのか分かっていたけれど、気付かない振りをして話を濁した。けれどそんな思惑を彼女が察す必要はなくまた察することもなく、曖昧な笑みを顔に入りつけている竜一の顔を覗き込んだ。目が合いそうになって慌てて逸らし、癖で空を仰いだ。深い青は、黒に似ている。
 彼女が声を荒げた拍子に両手で握っている柔らかいアルミの缶がベコンと凹んだ。それを彼女の手からするっと抜いて煽るけれど、随分頑張って振ったようで中身はほとんど入っていなかった。


「退院するんだから喜びなさいよ」

「三村さんは嬉しいわけ?」


 ここは当然喜ぶところなのだろう。きっと、絵理花たちは喜ぶに決まっている。こんなちっぽけな白い箱庭から飛び出して自由にもっと広い世界へ戻っていけるのだから。否、戻っていけるというのはおかしいかもしれない。彼女たちはここの世界の住人なんだと、いつの間にか思うようになった。竜一が空に住み打ち落とされた人間なのだとしたら、彼女たちはこのちっぽけな箱庭の住人なのだから遊びに行けるというのが正しい。
 看護師として美紗は退院する人間を喜んで送り出すだろう。それは当然のことだとは思う。思うけれどほんの僅かな間だけの仮の住処が結構大切になってしまったから、許の居場所を失くしたばかりの人間はこの場に留まってしまいたいと思ってしまう。ここから出ると、もう彼女に会えないのだし。


「嬉しいに決まってるじゃない。元気になってよかった」

「……俺、そんなに嬉しくねぇんだよ」

「えっ?」


 本当ならば風に浚われるほどの音量だったと思う。けれどそれをしっかりと美紗は聞き取った。驚いたような顔がとてもじゃないけれど二十六歳には見えないほど幼くて、思わず竜一の口唇が引きあがる。そうして、まるで戯れのように彼女の手を握るために手を伸ばした。


「好きになっちゃったんだけど」


 言葉にした瞬間、心臓が跳ね上がった。伝える気のなかった言葉が出た羞恥で俯いて、でも本気だと思わせるように彼女の手を握ろうと指先がそっと触れる。そうして、冷たくて硬い感触が伝わってきた。何かの冗談であることを確認するために視線を落とせば、彼女の指にシンプルな銀の指輪がはまっている。ゆっくりと数えれば、それは左手の薬指。


「何、言って……」

「なーんて、冗談」

「はぁ!?ビックリさせんじゃないわよ!」


 戸惑った顔に向かってにやりと笑むと、美紗の顔が驚きから弛緩した。明らかな安堵がそこには見て取れてツキンと胸が痛む。それは、空を飛んでいる頃には知ることのできなかった痛みだった。隣に座っているのをいいことに、美紗が中途半端な場所で止まっている竜一の指をすり抜けてバシバシと殴ってくる。その手が皮膚に触れるたび泣きそうになるくらいに何かが滲んでくるのを必死に堪えて、おちゃらけた笑いを浮かべた。


「白衣の天使が患者殴るか、普通!?」

「あんた元気でしょ!さっさと退院しろ!」


 本当に、退院して欲しいの。思わず口からでかかった言葉を、慌てて飲み込んだ。もしも本当に告白したら、指輪の相手と別れてくれるかとか我ながらアホらしい事を思ってしまった。
 でも本当は分かっていて、そんなことがある訳はない。きっとこの一瞬に交差するだけの運命だった。それはまるで、人が空と交わる刹那のように。その滞空時間が延びないように、決して越えられない壁がそこにはあった。


「飯だって言ってんでしょ!早く戻って来ないと食いっぱぐれるんだからね」


 先に戻るよと言って立ち上がった彼女を引きとめようと反射的に伸ばした手は、けれど空を掴んで戻ってきた。背を向けていて気付かなかった彼女が院内に戻っていくのを、声をかけることすらできずに見送った。まるで彼女との間に境界線があったようで、それが何なのかは本当は分かっていたけれど今それを口にするのはあまりにも優しくない行為なので見ないふりをして空を見上げた。


「美紗さん、さよなら」


 握ってままだった彼女の手に納まっていた少し変形したアルミ缶が、ベコンと一際大きな音を立てて側面の内側がくっ付くほどに凹んだ。それをドアの近くに設置してあるゴミ箱に向かって投げるけれど、ハイジャン以外やってこなかったツケではないだろうがゴミバコの縁に当たって外に弾かれて落ちる。
 なんだかゴミ箱にまで馬鹿にされているようで、無性にやるせなくなった。まだ濡れているコーラまみれのジャージを持って、病室に戻るために太さの違う足を投げ出す。途中で缶を拾ってゴミ箱に入れなおして、外と中の境界線を跨いだ。










 翌日も良く晴れていた。車で迎えに来ると言った母に対してリハビリも兼ねて歩くからいいと言って断ったから、大きな荷物だけ持って帰ってもらった。何度も来た事がある競技場が近くにあるから迷うこともない。聞えてくる人々の歓声やホイッスルに涙が滲まなくなった自分に気付いたのは、昨日のことだった。
 帰るかと久しぶりに靴を履いて頼んだ訳でもないのに来てくれた友達と一緒に待合室から大きな玄関ホールに鞄を担いで歩き出す。振り返ってはいけないような感じが、何となくだがしていた。


「河合君!」


 見送りをしてくれと言ったわけではないから、見送りに着てくれないことに対して少しの落胆しかなかった。諦めの方が多くを占めている感情だから、特に何かを口にしなければ苦しかったなんてことはない。けれど、病院を出ようと自動ドアから一歩踏み出した瞬間に後ろから声をかけられた。思わず振り返れば、美紗と絵理花が走ったのか肩で息をしている。美紗はともかく、絵理花は予想外で目を見開いて彼女を凝視した。美紗本人から数日前に発作を起こしてICU行きだと聞いていた。


「あの……勉強とか教えてくれてありがと、ございました」

「うん、大丈夫?」


 確か心臓病で運動はご法度のはずだったが、彼女は初めて会ったときから走り回っていた。今だって、面会謝絶くらいの勢いで発作が起きたと言っていたわりに元気に走ってきたようだ。どうにもこの白い箱庭の中では不思議なことが起こる。
 病院の外、自動扉の向こう側で竜一は複雑な目で美紗を見た。昨日のことなんて全くなかったことにして、今までと変わらない態度でしかない。それが少しだけ淋しかった。少しでも脈があれば意識してくれるんじゃあないかと期待していたが、それは見事に打ち砕かれた。彼女に意識なんて全くなくて、やっぱり竜一は彼女のとって子供でしかなかった。ここにたくさんいる患者と一緒。


「わたし、手術しようと思います」

「うん?」

「本当は、手術なんてしても無駄なんじゃないかって思ってたんだけど……。でも空から落ちても、何度でも飛べると思うから」


 頬を赤くして、わたしも走ってみたいからと絵理花は笑ったが、その意味は半分も分からなかった。流石にその顔に呆れたのだろう、美紗が顔を寄せて説明してくれる。でもそんなことよりも彼女の顔が近くにあることに緊張して言葉は左の耳から右の耳を通り抜けて行った。


「河合君、聞いてる?」

「聞いてる……。がんばってな」

「はい!」


 聞かれた手前聞いていると答えてしまったが、本当はちっとも聞いていなかった。ただ隣で友達はしきりに頷いて感心したように短く息なんかを吐き出したから、きっと理解している。バクバクする心臓を押さえつけるように少女に引きつってしまう笑みを向けると、絵理花は頷いた後何か言いたそうにちらちらと視線を向けてきた。けれど美紗の近づいた耳が気になって全く気付かなかった。気付いたのは、友達が隣で小突いてくれたから。


「だから、もし元気になったら……わたしと会ってくれますかっ?」

「いいよ?」


 会うくらいいいよ、と軽い気持ちで笑った。絵理花は勉強を教えてくれた恩義に対して、もしかしたら空の青さを教えてくれた人間に対しての親しみからその言葉を発したのだと純粋に感じる。ただ気になるのは今、美紗の態度それだけだったから。
 頷くと彼女はとても嬉しそうな顔をして美紗を見上げ、美紗も大人の態度で微笑み返した。それを見た瞬間に、自分たちの間にある境界線の名前を知る。それは看護師と患者と言う線ではなくて、大人と子供の境界線だった。


「じゃあ河合君、もう来るなよ」

「うわ、その言い方傷つくんだけど」

「これが正しいお別れの挨拶なんだよ、ここでは」

「美紗さんも、彼氏さんに捨てられないよーにね」

「なっ!」

「バイバーイ」


 最後の捨て台詞は、自分の中の僅かな期待。もしかしたらその指輪の男と別れたら少しは希望が出てくるんじゃあないかと言う浅ましい願望。でもきっと、もうこの線は交わることがないだろう。そうして、その線を今自分から上を向くことで断ち切った。
 くるりと踵を返して、境界線から一歩遠くへ踏み出す。一歩一歩と足を進めるたび何かに足を絡め取られるような重さを感じたが、病院の敷地を出ると急に脚が軽くなった。
 ここから駅までは緑道。今まで何度も大会のウォームアップでここをランニングした。その慣れた道には買い物帰りの主婦が子供を連れていたり、単語帳を捲りながら受験生が忙しなく歩いていたり、中睦まじい老夫婦がゆっくりと散歩をしている。その光景全てが、ひどく安心させてくれた。


「告んなかったの?」

「男いんだって」

「どっちみちまた失恋か」

「うっせ」


 からかうような友人の言葉に短く返した声は、自分で驚くほどに軽い音だった。きっともう吹っ切れいているのだろう。吹っ切れているというよりは諦めがついていると言ったほうが正しいのだろうか、結局飛べなかったのは自分だったから。
 彼女との間には絶対に越えられない壁があった。それはアイドルに恋したそれとは違うけれど、でも絶対的な壁。社会人には高校生なんて子供でしかなくて、しかも腐った子供は対象外どころか庇護の対象にすらなってしまう。そうしてさらに看護師と患者。絶対的な力関係は、守る者と守られる者のそれでしかなかった。ただ足を怪我しただけだったから覆せたその壁は、年齢差と言う壁に阻まれて結局どの境界は越えられずにいた


「壁、ねぇ……」

「なんだよ」

「でもそれって逃げなんじゃないの」

「違ぇよ」


 ぽつりぽつりとその話をすると、中学からつるんでいるそいつは足元の落ち葉を踏みつけるために落としていた顔を上げて、珍しくひどく真面目な顔でじっと見つめてきた。なんだかその視線に、緊張した。


「俺、お前のことマジで好きなんだけど」

「何だよ、いきなり?知ってるってそんなこと」

「じゃなくて、愛してるっつってんの」


 真剣な顔で、友達だと思っていた奴に告白された。それは女の子だったら多少嬉しいかもしれないが、なんだって今隣にいる奴は男なんだろう。告白されたのは初めてだから勝手が分からずに、思わず表情筋が困ったような笑っているような複雑な顔を作った。もしかしたら美紗に告白した時も、こんな顔をしていたのかもしれない。


「なんつって。驚いた?」

「はぁ!?」


 にぃっと笑った友達が、マジなわけないじゃんと肩を叩いてきた。それはマジだったらそれこそ困るけれど、でも今の雰囲気は嘘だというには真に迫りすぎていた。
 意図も分からず、のろのろと歩きながら空を見上げた。真っ青な空には一つの雲も浮いていなくて、太陽が白く光っている。ほんの一瞬だけ頭の中がスッキリしたけれど、そこから何かが導き出されることはなかった。


「俺がマジで竜一のこと好きだったとするだろ。ここで問題になるのは?」

「……男同士」

「だろ。それでも越える人たちだっているんだから、お前が言う壁なんてちっぽけなもんなんじゃないの」


 ほんの少し切なそうな顔をして、彼はそう言うと空を仰いだ。彼は空を飛び続ける竜一と一緒に空を見上げ続けてきた。別に強制したわけではないけれど、空を飛ぶ竜一を空と一緒にその目に映してきた。だから見上げる空は、今も一緒。何となくこいつはいつまでも一緒に空を見上げているような気がして、今さっき感じていた違和感はどこかへ消えた。


「よし!まずはリハビリだな」

「脈略なさすぎじゃね?」

「俺的にはあんの」

「あっそ」


 いつものようにそうかよと軽く笑って、彼は一歩先に踏み出した。その一歩を追うようにまだ細い足を踏み出す。
 その境界線を前に、たった一歩進むのを怖がった。壁を越える方法がごまんとあっても、それが示す境界踏み越える勇気を持つことはひどく難しい。だから、一瞬だけ交差した線を踏みつけてみようと思う。そのために、まず真っ青な空を見上げて深呼吸した。





−終−

竜一よりも彼の友人のが好みだ