ペチペチと。ペチペチと顔を叩かれている。人の手の感触ではなくもっと湿った、強いてあげるならまだ渇いていない紙粘土のような物で。しかし冬に紙粘土で叩かれたくらいで布団から出られたら世話はない。布団に更にもぐりこんでもう一寝入りしようと寝返りを打った。


「もう! 起きてよアユ!」

「グッ!」


 今度は紙粘土なんて甘いものじゃなくて、ふとんを剥がれて鳩尾になにか硬いものを喰らった。思わず呻き声を上げて、これ以上寝ていたら今度は何がクるか(例えば急所に飛び蹴りとか)分からないのでベッドの端に避けながら外気に体を震えさせて目をこじ開けた。
 目の前には制服姿でにこにこ笑っている幼馴染のソラがいる。さっきの鳩尾はもちろんコイツが原因。でも紙粘土なんて当たり前だけど持っていない。


「早く支度しないとまた遅刻しちゃうよ」

「この寒いのに外に出るくらいだったら遅刻した方がずっといい」

「そんなこと言って、終業式くらい出ようよ」

「終業式くらい休ませろよ」

「寒いからってアユ何回遅刻した?」

「今月は三回くらいはちゃんと間に合った」

「少ないよ!」


 冬が苦手だ。動きたくない。おかげで活動に適した気温になるまでふとんの中にいるものだから、十二月に入って朝のSHRに間に合ったのはちゃんと記憶している分は三回ほどだった。それに今日は終業式だし、今更行かなくてもどうなるわけではないと思う。
 なのに、お節介な幼馴染はまだ学校に行くとは一言も言っていないのに制服をクローゼットから出してきて、ご丁寧にシャツと靴下まで出してくれやがった。


「急がないと遅刻しちゃう。ねぇ、ポー?」


 ここには俺とソラの二人しかいない。俺の部屋なんだから当たり前だ。けれどこの幼馴染、困ったことにぬいぐるみに話しかける癖がある。本人はそのぬいぐるみが動いていると言い張っているが、そんな紙粘土だかフェルトだか知らないがてのひらサイズのぬいぐるみが動いたらたまったものじゃない。いつまでも思考が五歳の頃から変わらないのだ。


「みてみて、アユ!ポーが膨らんだよ」

「……よかったな」


 残念ながら俺には鞄についたぬいぐるみにしか見えない。それも家庭科の時間に作るようなちゃっちい奴だ。こいつは一体何が見えてるんだか、いつか頭を開いてみたい。これ以上ベッドの上にいてもしょうがないし目も完全に覚めてしまったから、諦めてのろのろと着替えて学校に行くことにする。


「ごはんよー」


 グルなのかただの偶然なのか、着替え始めたら下から母さんの声が聞こえてきた。いつもは朝食なんて食べないし、目の前でソラがにやにや笑ってしきりにぬいぐるみに話しかけているからやっぱりグルだろう。


「あたし先にご飯食べに行っちゃうからね」


 ソラは鞄を掴んで部屋から出て行った。軽快に廊下を歩く音が聞こえる。
 でもここは俺の家で、ソラの家は隣だったと思うんだ。お前、家で飯食ってから来いよ。つーか食ってきただろうに。起こしてもらっておいてそんなことを思う俺は、間違っているだろうか。




   ×××




 しばらくベッドの上でボーっとしていた。当たり前だ、四時近くまでゲームしていたんだから。油断するとまた寝てしまいそうになる脳をどうにか覚醒させてのろのろとベッドから這い出し、冷たいシャツに袖を通した。これだから冬は嫌だ。制服が冷たくて着るだけでせっかく暖かかった体が冷える。できるだけ寒さを感じる時間が短くてすむように手早く着替え、携帯をポケットに突っ込んで階段を下りる。まだ廊下も薄ら寒かった。
 俺が行くとほぼ同時にリビングからソラが顔を出した。しっかり荷物を持って口の端にパン屑をつけて、俺を見て驚いた顔をする。


「やっと来た。遅いよ」

「睡眠不足なんだから仕方ねぇの。まだ時間あんだろ?」

「もう遅刻ギリギリ」

「マジか」

「マジだよ。早く行こ」

「俺まだ飯食ってないけど」


 それどころか顔も洗ってない。ソラを抜いてダイニングに行こうとしたが、何故か通してはくれなかった。どうしてもダイニングに行かせたくないのか、俺の前に体を滑り込ませてくる。何度か膠着して双方睨み合っていると、ダイニングから「遅刻しないでよ」と釘を刺された。親まで飯食う前に学校行けってか。それは食育とかの観点からどうなんだ。


「大丈夫、アユの分のご飯はあたしが食べてあげたから」


 それのどこが一体大丈夫なんだ。お前が食べたところで俺の腹が膨れるわけでも栄養が回ってくるわけでもないだろうに。でもソラは本気なようで、したり顔で笑っている。この顔を見るともう俺は逆らう気も起きなくて、いつも折れている。それは今日が特別ではなくていつものことだ。ガキの頃から変わらない。俺はソラに敵わないし、ソラを守らなきゃならないって気になる。こいつが女だからとかそんな理由じゃなくて、きっとソラだから。


「顔洗ってくるからちょい待って」

「りょーかい」


 ダイニングに行くのを諦めて、ソラの左横を抜けて洗面所に行った。歯を磨きながら頭の様子を確認し、そんなに乱れていないのでセットする必要もないと判断してそのままにすることに決定。顔を洗って濡れた手で何度か撫でつけただけで終わりにした。


「アユー、まだぁー?」

「もーちょい」

「早くしないと本当に遅刻しちゃうよ。ねぇ、ポー」


 俺が準備している十分かそこらも大人しく待てないのか。いつものことながら堪え性のない奴だ。
 また人形と遊び始めてしまったソラは時々笑いながら俺に「ポーが逆立ちしてるよ!」などと報告し始めた。もう慣れたこととはいえ、そんなことを言われても困る。できるだけ手早く身支度を済ませて玄関に行くと、ソラが靴を履いた状態で玄関に座りうっとりと鞄(正確には鞄に付いているぬいぐるみ)を見て時折手を叩いていた。俺に気づくと、自慢気にそれを指差してみせる。


「みて、ポーが逆立ちして歩くの!」

「よかったな。どけよ、靴履けないから」

「だって初めて見た。いってきまーす」


遅刻しそうとか言ってるのにのんびりした奴だ。狭い玄関を無理矢理抜けて、はきつぶしたスニーカーを引っ掛けて玄関から出るとソラも慌てたようにぬいぐるみを撫でつけてから立ち上がった。ダイニングにいる親に声を掛けた。返ってきたのは「行ってらっしゃい」というたった一言。でもこれは俺の家であってソラの家は隣だ。


「よし、行こ」


 吐き出した息が真っ白だったことに思わず体を竦めて、学ランのポケットに手を突っ込んだ。ポケットの中の携帯で時間を確認すれば、八時を少し過ぎたところ。学校に行く時間なんだから確認しなくても分かっていたが、朝早いし寒い。マフラーでもすればよかったと後悔したが、数メートル向こうのエレベータのボタンをソラがすでに押しているから戻るのも悪い気がしてやめた。


「みてみて。ポーも寒いんだね、縮んでるよ」

「……そーかよ」

「もう! アユ、ノリ悪い」

「お前がテンション高すぎ」


 チン。軽い音がしてエレベータが来たので足早に乗り込んで、意味もなく強く一のボタンを押した。押せば押しただけ早く扉が閉まる気がするのは何故だろう。
 俺にはそのポーとかいうぬいぐるみが縮こまっているようには見えない。ちゃんとぬいぐるみしてるようにしか見えないから返事のしようがない。そもそもポーって名前は「ポーって鳴くから」らしいが鳴き声を上げるようにも見えない。昔は機械でも入っているのかと思って腹を押したりしてみたことがあるが、ぬいぐるみじゃなくてソラが泣き出したから以来確認していない。
 チン。同じ音でエレベータが下に降りたことに気づく。開いたドアの向こうから冷たい風が吹いてきて思わず尻込みするが、気合を入れて外に出た。駅まで五分。耐えられないことはない。


「そういえばさ、アユ知ってる?」

「知らん」

「えー、遅れてるぅ」


 一体何の話だ。急に振られたから冗談で返してみたら、ボケで返された。いや、こいつの場合ボケたんじゃなくて単純にそう思っているのだろう。失礼な奴だ。
 俺の気持ちを知りもしないで、ソラはぬいぐるみに「アユ知らないんだって」とか言って笑っている。何だか俺が世間知らずみたいだが、そんなことは断じてない。たまにこいつのこういうところがムカつく。


「何がだよ」

「だから、連続神隠し事件だよ」


 何がだから何だか。まるで「さっき言ったじゃん」みたいな顔をされても返答できねぇし。
 連続神隠し事件のことは残念ながら知っている。ここ一月くらいの間に小学生くらいの子供が九人もいなくなった。ここまでならただの誘拐事件だがそういうわけにはいかないようで、その子供たちは全員一週間で帰ってきている。しかもその間の記憶があやふやで、全員が口を揃えてサンタクロースに会ったと言うのだ。クリスマスが近づいた十二月だからどうせコスプレした変態が起こした事件だろうとメディアは報道している。


「あー、あれな。俺たちは関係ねぇだろ」

「この間、片岡さん家の亮介君が被害にあったんだって」

「マジか。で、お前も怖くなったわけ?」

「なってないよ!」


 下の階に住んでいる片岡さん家の亮介君は小学四年生だ。神隠し事件は実は近所で起きているのだが、子供は帰ってくるし特に外傷もメンタル的な部分も問題がないから地方紙の片隅程度で留まっている。狙われているのは小学生ばかりだから小学生だったのがだいぶ昔の俺たちには正直関係ない。


「ポックルー?」


 道路の反対側からぶつぶつ声が聞こえる。面倒くさいから無視しようとしていたのだが、残念ながらソラが気づいた。失礼なことに指まで指して。
 手を下げさせて極力避けていた視線をそっとそちらに向けると、全身真っ赤な服を着た金髪の兄ちゃんが這い蹲っていた。真っ赤と言っても戦隊物のリーダーの全身タイツみたいなものじゃなくて、すこしもこもこのスウェットみたいなものだ。だからって赤はない。超目立っているし。少し長い髪で顔は隠れているがまだ若い日本人だろうか、全く最近の若いモンは。俺が言えた歳でもないが。


「あれ。なんだろ、あの人?」

「あ?」

「どこ行ったんやー?俺またジジイどもにどやされるやないかい!」

「どうしたんですか?コンタクト落しましたか?」

「おい。学校行くんだろ」


 ソラには警戒心と言うものが全くない。人を疑うとかそんなことをしたことがないのだ。こんな怪しい関西人に声をかけるなんて一般人に思いつくことじゃない。
 這い蹲っていた怪しい兄ちゃんは近づいてきたソラに驚いたように顔を上げた。そりゃ驚くよな。その人は薄い色のついたサングラスをかけていたからコンタクトを落としたわけではないと思う。マジマジとソラを見てそれから驚いたようにサングラスの向こうで目を大きく見開き、けれど常人には気づかないほどの刹那さでニカリと笑った。


「なんでもあらへんよ。ちょぉコンタクト落としてしもてん」


 じゃあなんでグラサンしてんだ。そんなスペアのメガネみたいに持ってたってのか。突っ込みたいけれどここで突っ込んだら強制的に話に巻き込まれていくのは昔からの経験で嫌でも分かるので沈黙を貫いた。が、時と場合によることを忘れていた。


「やっぱり!一緒に探しますよ。三人のほうが早く見つかりますから」

「俺を数に入れるな」

「冷たいこと言わないの。人の出会いは一期一会っていうでしょ?」

「微妙に間違ってんだよ馬鹿」


 そりゃ出会いは一期一会で間違ってないが、この場合は困った時はお互い様だとかそういう類のことわざを持って来るべきだろう。ソラは日本語が苦手だ。日本人のくせに。いや、今はもう関係ないのか。
 この兄さんもいろいろと突っ込むべきだろうに何も言わずパタパタと手を横に振って笑った。さっきとは違う正真正銘の笑みだった。


「や、大丈夫やで。お姉ちゃんらガッコ行かんとあかんやろ。早よせんと遅刻してまうで」

「あ、そうだった。今何時?」


 忘れてたのかよ、朝から叩き起こしたくせに。口の中で文句を言うと、「いいから時間!」と急かされた。ポケットの中の携帯を開いて手を出すのは寒いからそのままで端から覗いてみると、遅刻までのカウントダウンは一分を切っていた。性格には、遅刻ギリギリの電車がホームを滑り出すまでのカウントダウン、か。
 思わずお互いに顔を見合わせて、駅までフルダッシュした。後ろからさっきの関西弁の変なグラサンの視線を感じたけれど、もう会うこともない人間だと相手にしかなった。まさかこんなにも俺たちに深く関係してくる人間だと、知らなかったから。




   ×××




 ギリギリ電車に乗り込んで、車内であった友人たちに同伴通学をからわれたがあまりにもいつものことだったので何も言わずに一息ついた。どうしてこの年頃の人間てのは他人の惚れた腫れたにまで興味を持つんだ。別に俺だって興味ないわけじゃないけど。
 電車に間に合ったから機械的にSHRにも間に合って、小言の準備をしていたらしい担任は悔しそうに片頬を歪めていた。けれど間に合ったということは暴力的に寒い体育館で行われる終業式にも参加しなければならないということで。寒いのは嫌いなので当然サボろうとしたけれど、教室から消える前にソラに捕まって強制参加させられた。俺、「便所」って言ったのに。マジで催してたらどうする気だったんだこいつ。全く、幼馴染が同じクラスにいるとやりにくい。
 息が白くなる体育館での終業式を終えて教室に戻り、担任から小言つきでオール四の通信簿を受け取った。ソラが勝手に覗き込んできたからこれ幸いと押しつける。別に今更見られても困るもんじゃないし、携帯一個持ってきたからどうやって持って帰ろうと思っていたところだった。


「アユー、帰るよ」

「……いちいち呼ぶなよ」


 これでも教室では少し敬遠されているようなタイプの人間だ。世間一般で言う不良とかチョイ悪とか、そんな感じの。なのにソラが天然百パーセントの笑顔で構ってくるものだから、クラス中から怖そうに見えて実はお茶目な奴とか思われている節がある。いい迷惑だ。
 けれど素直に従ってしまうこっちにも問題があるのだろう。それを認めたくはないが。


「お前、今日くらい予定ねぇの?」

「アユと一緒にクリスマスパーティの準備」

「そうじゃなくて」

 今日は世間一般で言うクリスマス・イヴ。年頃の女なら彼氏とデートとかあるだろうに何が悲しくて俺がデートしてやらないといけないんだ。もともとソラにそんな相手がいる訳ないことも知っているし昔からそれこそ十年以上変わっていないことだから今更文句はないけれど、口だけは文句を紡ぐ。但し、ソラは全く聞いてない。


「アユ予定あるの? 残念、キャンセルで」

「何で俺がお前の予定に合わせないといけねぇんだよ」


 どうせゲームの予定だが。実は昨夜のうちに相当進み、今日はラスボスを倒すだけと言うなんとも美味しい状況で止まっている。そのおかげで今日の朝も起きるのが辛かったのはこいつには内緒。うっかり漏らしでもしたら今夜泊まるとか言い出すだろう。そうしたら俺の寝るところがない。この歳になって狭いベッドでガキみたいに一緒に寝るなんて真っ平だ。


「いいじゃんクリスマスくらい!」

「いつもだろが!」

「おったおった。お姉ちゃんら、朝ぶりやん」


 今日はいつもと違う道を帰る。ソラがスーパーに寄ってクリスマスパーティの買い物がしたいと言い出したから、口では嫌がっていても体は不思議と何の抵抗もせずにスーパーを回る道を選んでいた。
 スーパーの入り口付近、朝市も終わっている時間なので人はまばらだが丁度正面から出てきた赤い男に声をかけられた。朝、遅刻ギリギリまで追い詰められて駅まで走る羽目に陥らせた、あの変な男だ。


「ガッコ終わったん?」

「はい。今日は午前中だけだったので。お兄さんはコンタクトみつかりましたか?」

「見つかったで。バッチリや」


 コンタクトだと言っていたわりに、まだサングラスをかけたままだった。彼はサングラスの向こうの細い目でソラをじろじろ、それこそ舐めるように見てにやりと口の端を僅かに引き上げた。どうやら俺は眼中にないらしく目を向けもしない。ただソラだって一応女なわけで、だから俺が守らない取って思う。思わずソラの手を引いた俺を無視して、男はソラと視線を合わせるように軽く屈んだ。


「なぁ、君らサンタクロースって信じとる?」


 サンタ=クロース。赤い服を着て夜な夜な他人の家に不可解な方法で不法侵入し子供の枕元におもちゃを不法投棄して去っていくメタボのじいさん。そんなもん高校生になってまで信じている人間はいない。
 赤い服着たお兄さん。しかも関西弁。クリスマスの時期に出没するにはティッシュ配りのバイトでコスプレが条件につきそうだが、残念なことに目の前にいる。


「もちろん! サンタさんはいるよ?」

「…………」

「お兄ちゃんは?」

「…………」


 答えられるわけねぇじゃん。となりでこんなに純粋にサンタクロースの存在を信じている幼馴染がいて、「いるわけねぇじゃん」と言える人間がいたらお目にかかってみたい。
 この赤い兄ちゃんは俺の沈黙の意味を完全に見透かしたようににやにやと笑ってすっと自分を指差した。


「俺な、サンタクロースなんや」


 来た。そこですっげー!とか言う歳はとっくの昔に卒業している。俺らをからかって何がしたいんだ、この兄ちゃんは。それとも本気で頭がおかしいのだろうか。表情が真剣な分彼の胸のうちが全く分からなかった。得たいが知れないものからは逃げるのが一番いいに決まっている。


「ソラ、さっさと買い物して帰る……」

「すっごぉい!本当にサンタさん!?」

「ほんまやでー。びっくりやろ」


 いろんな意味でビックリしたよ。ソラがサンタクロースを信じてることは知ってたけど、こんなに食いつくか。サンタクロースってのはおっさんだろ。目の前のめっちゃ若いし。明らかにバイトまたは怪しい人でしかないのに、信じるソラに一番驚いた。そして一瞬、こいつを警察に突き出すべきかどうか考えた。


「そっちのお兄ちゃんは信じとらんみたいやけどな、サンタ協会ってのがあるんよ。んで、俺はそこに所属しとるんや」

「やっぱり! 世界中に配るんじゃ大変ですもんね」

「そーやろ、そーやろ。ほんでな、俺お願いがあるんや。俺にちょぉついてきてくれんかな」

「はい?」

「立派なサンタにしてやるさかい、抵抗すんなや。湯月歩(あゆみ)」


 背筋がゾクッとした。彼の声が背中を這い上がり、その部分から凍りついたように動けなくなった。どうして俺の名前を知っているのかとか何の目的でソラをとか、頭の中がグチャグチャにかき混ぜられた。混乱。混沌。無秩序。
 目の前で予想外の台詞に固まっているソラが見える。何の抵抗もせずに動けないでいる。理由は俺と同じか違うのか分からない。


「安心しぃや。ただ寒いだけやから」


 いやらしい声。地獄の底から響いてくるような不吉な感じ。声が消えるのと入れ替わるように目の前がくらんだ。ソラが目の前からいなくなる。ソラが連れて行かれる。はっきりとそう感じたけれど助けに動くこともできなかった。このまま消失に任せるしかないと思った。
 真っ白になった視界。その後にブラックアウトする脳内。混乱。混沌。無秩序。反逆。消失。喪失。そして、声。
 遠のく意識に体がふわりと無重力に放り出されたような感覚に襲われる。

 ――アユ!

 声に引っ張られたのか腕を引っ張られたのか分からなかったけれど、体が重力を感じて前のめりになった。けれど相変わらず視界は真っ暗なまま。





-続-

書いたのは三月です。