公認サンタクロース協会。略してサン協。本部はフィンランドとノルウェイの狭間に位置し、サンタクロース養成所も併設されている。各国に支部があり、日本だと北海道にある。サンタになるには養成所で数年教育を受け、卒業試験を受ける。更に三年から五年公認サンタの下で助手を務める。そして適正試験に合格して漸く一人前のサンタクロースとして子供に夢を与える仕事ができる。
 以上が、放置されていた公認サンタクロース協会のパンフレットに載っていた。


「……ここ、どこよ」


 目を覚ますと気分は最悪で、胃が目眩でも起こしてるんじゃないかってほどグラグラと変な圧迫を感じていた。小綺麗な部屋のベッドに俺とソラは寝かされていて、窓の外を見ると猛烈に吹雪が吹き荒れていた。


「つーかサンタ組合って」

「協会だよ。あたし、本当にサンタになれるのかな」

「夢見すぎ」

「だって将来の夢はサンタクロースだったもん」

 そいつは初耳だ。十六にもなってサンタクロースになりたいってのはどうよ。まぁ、夢のない俺が言うことでもないか。確かに昔からソラはサンタクロースが大好きで、いつかサンタクロースとお茶がしたいと言っていた。


「目ぇ覚めたか、アユミと愉快な仲間。俺はフキ、これ名刺」


 あの兄さんが着替えたのかラフな格好で入ってきた。ラフと言ってもシャツから着替えたタンクトップは相変わらず赤い。どんだけ赤が好きなんだ。
 ソラが渡された名刺を覗き込むと、そこにはご丁寧にも「日本担当公認サンタクロース」と役職が入っていた。このコスプレ野郎はどこまで本当なんだ。いっそ寒気がしてくる。そう、寒気が。


「つーか、ここどこだよ!」

「うっさい客やな。俺、あんさん招待した覚えはあれへんのやけど」

「うるせぇ。こっちだって願い下げだ。帰るぞ、ソラ」

「えぇー」

「えー、じゃねぇよ」


 目の前が真っ白になって、気がついたらこんなところにいた。これは尋常じゃない。正常に異常だ。これ以上こんな所にいたらいけないと頭の中でけたたましく警報が鳴っていた。けれどソラにはその危険察知能力が欠けている。だから早く逃げないといけない。


「……。なんや、君が本物やないかい」


 億劫そうに目を眇めていたフキとか名乗るコスプレ野郎は、ベッドから降りてソラの腕を引っ張った俺をマジマジと見て目を軽く張った。意外そうに呟いて、それから火が点いたように笑い出す。笑われるような顔はしていないはずなのに人の顔を見て失礼な奴だ。


「ホンモンがサンタ信じとらんて、どれだけやねん!」


 失礼なことに俺を指差して体を折って笑うもんだから、威嚇するのも馬鹿馬鹿しくなった。
 一しきり笑った後、コスプレ野郎は目尻に浮かんだ涙を男丸出しの骨ばった手で繊細に拭い、ドカッとベッドの前にあるソファに腰を下ろした。彼の手にはソラが持っているのと同じようなフェルトのぬいぐるみが握られている。何だあれ、流行ってるのか?


「あーおもろ。おもろくて泣けてくるわ」

「あの、何のことですか?」

「その前に兄ちゃん、名前言うてくれや」

「変態に名乗るいわれはねぇよ」

「自分、湯月アユミやな?」


 どうして名前を知っている。けれど彼の鋭い視線に抵抗ができなかった。恐怖に屈服するように、ほぼ自動的に頷く。立ち上がった足から力が抜けて、情けなくもベッドにへたり込んだ。足に力が入らない恐怖と言うものを情けなくも初めて味わった。できるのはささやかではあるが目の前の男を睨みつけるくらいだ。


「なんでンな女の子みたいな名前やねん。間違えるっちゅーねん」

「名前でとやかく言われるいわれもない」

「自分、これちゃぁんと見えるか?」


 一度「あーあ」と天井を仰いでから、赤い男は手に持っていたぬいぐるみをてのひらに乗せて見せた。ソラが持っているのと同じぬいぐるみ。きっと手触りは乾いていない紙粘土みたいにしっとりとしているのだろう。


「見える、これでいいだろ。いいから俺らを帰してくれ」

「何に見えるか言うたら考えたる」

「ぬいぐるみだろ、こいつも持ってる。流行ってんのか?」

「違うよ。ポーが必死に腕立て伏せしてる」


 ソラが男のてのひらをじーっと見つめてそういうけど、どれだけ見てもただのぬいぐるみが乗っかっているようにしか見えなかった。そもそもソラは警戒心というものがない。俺の中で煩いくらいに警報が鳴り響いているのに無邪気なソラがいて、俺は反射でソラの手を引いた。


「やっぱお嬢ちゃん見えとんねんな。んで、アユミは見えてへんと」

「だから見えてるって」

「見えてへん。腕立て伏せしとらへんのやろ」


 ぬいぐるみが腕立て伏せなんてしててたまるかってんだ。こいつもソラと同じで妄想の中で生きているのだろうか。やばい、早く逃げたい。俺の隣に座ったソラは興味深そうにというよりもただ子供が引き寄せられるように男のてのひらに近づいてその手をにこにこ見ている。この空間では、俺だけがそれを見えない。見えたくもないが。


「これ掛けてみぃ。見えるようになるさかい」


 投げられたのは薄く色のついたサングラス。さっきまでこの人がかけていたものだ。彼の目は少し茶色っぽかった。サングラスをかけて部屋全体を見回してみた。うっすら紫色の室内。そして、ここを見ろと言われて男の掌に視線を向けると。


「う、腕立てしてる……」


 ぬいぐるみが本当に腕立て伏せをしていた。短い手足だから曲がっている部分こそ少ないが、必死なのが伝わってくるほど歯を食いしばっていた。紙粘土のような表面にうっすら汗すら滲んでいるかのようにしっとりとしているように見えた。
 一体どんな仕掛けメガネだ。


「アユにもみえるの!?」


「このグラサンは補助道具やからな。俺もあらへんと見えへんねん。普通はホンモンは見えるはずやのにな」


 腕立て伏せに疲れたのかうつ伏せでだらーんと潰れて汗を拭って、今度は仰向けになって腹筋を開始した。胴が短いからかぽっこりと膨らんでいる柔らかそうな腹が邪魔をしているのか体が地上から数センチも持ち上がっていない。


「こいつは生ポックル。名前はペケやってんけど今はポーやな」


 つまりこれはソラのぬいぐるみだったのか。どうりで見覚えのある汚れや染みがあると思った。けれど俺は動くぬいぐるみに釘づけになっていた。やべぇ、可愛い。思わず、見惚れた。


「これ、あたしの大切なものだから返してくれますか?」

「えぇよ。これは元からお嬢ちゃんらのものやから。お嬢ちゃんの名前、まだ聞いてへんよな」

「深町宙です」

「ソラちゃんな。オーケー、よろしゅう。おいアユミ、そろそろそれ返さんかい」


 視界がクリアになったのとぬいぐるみが動かなくなったのは同時だった。信じられないことだが、なんの種も仕掛けも見つからなかった。男はサングラスを掛けなおすとぬいぐるみを投げ渡し、ソラが慌ててキャッチした。大切そうに抱きしめている。


「サンタになるには条件がある。サンタを信じていること、夢を与えたいこと。そして、才能。みたとこお前ら中途半端や」


 俺には才能がなく、ソラには夢がないと男は言った。こんなにも夢見がちのソラに夢がないと、そう言った。俺にない才能が何の才能だか全く分からないし逆になくてよかったとすら思うけれど、ソラに夢がないというのは解せなかった。
 俺の眼が疑問を訴えたのか、赤い男はサングラスを直して俺を見た。


「最も必要なものは夢や。信じることも才能もあとからついてくる。実際俺も才能あらへんから補助具を必要としているわけやし」

「待てよ、俺にも夢なんてねぇよ」

「あるやろ。嘘言うなや、ややこし。ちいと黙っとれ」

「黙ってられるかよ!勝手に人のこと攫ってサンタだなんだって言われて……攫って?お前、まさか……」

「何がまさかや。こっちも仕事やねんぞ」


 攫われた子供はサンタクロースを信じているか信じていないか、そんな年齢ばかりで。帰ってきて異口同音に発するのは「サンタクロースに会った」。この男は、サンタクロースだと言った。


「お前が、連続神隠し事件の犯人……」

「神隠し? 面倒なことをやいやい言うなや。子供連れてきたのは確かに俺やけど」


 さっぱり肯定しやがった。まさか自分たちが誘拐されるとは思っていなかったからいまいち現実味がなかった。やっぱり夢見がちなソラのせいか。いや、ここでソラは関係ないか。ただ現状がもう通常の頭では納得できなくなっていた。だから現実として受け止められないのだろう。


「別に危害を加えとらんわ。それにな、アレはお前を捜してたんやで。アユミ」


 サンタクロースってのはもっと温和で寛大であるはずなのに、目の前でサンタクロースだと名乗る誘拐犯は凶悪な顔で睨んできた。俺のせいとか、わけの分からない言葉をたて並べて。俺のせいじゃあないはずなのに、俺のせいで起こった事件だと、男はそう言った。


「ほんまはお前のもんやったポックルをソラが持っとった。せやから分からんなって、とりあえず手当たり次第にポックルが見えそうな奴に話聞いただけや。お前のせいやで」


 冷静に聞くと絶対に俺のせいじゃないけれど、混乱している今はそのまま俺のせいなんじゃないかと思って正直動揺した。俺のせいで子供が誘拐されるなんて我慢ならない。自己嫌悪で暴れだしそうだ。でも近くにソラがいるからそれをどうにか押し留めて冷静を保つ。一度キレると何をしでかすかわからないことは自分でよく知っている。


「自分、他人が傷つくの見ると耐えられんのやろ。何も壊されたくないんやろ。サンタなんて職ぴったりやんか」

「何がピッタリだ。どこがピッタリなんだ」

「さ、そうと決まったらイロイロ説明したるから。と、その前に……」


 立ち上がった男はちらりとソラを見て、困ったように笑った。ただ笑っただけなのに俺の背筋が恐怖を感じて粟立ち、反射的にソラを守るために引き寄せようとしたけれどどうしても腕が動かなかった。


「ソラには帰ってもらわんとあかんな。悪いけど、ここは関係者以外立ち入り禁止やねん」

「え……?」

「大丈夫、怖ないで」

「や、やだ! 来ないで!」


 男は恐怖を纏っていた。見ているこっちが怖くなるくらいに。軽薄な笑みを顔に貼りつけて、傾いた首が狂気にも似て俺の脳が警笛を大音量で鳴らす。
 ソラの悲鳴が耳を裂いて、頭の中が沸騰したようになって。一歩一歩ゆっくりとソラに近づいていく男。恐怖に顔を引きつらせて悲鳴をあげ、腰を抜かして動けないソラ。一瞬視界がホワイトアウトした。次に視界が世界を映したと思ったら目の前にソラがいて、右の拳がじんわりと痛んだ。


「……ってぇ」


 声がした方に視線をやれば、ラックに突っ込んだ男が赤くなった口の端を抑えて立ち上がったところだった。脳が沸騰したと思ったら殴っていたのか。こんなことになるから、いやだったのに。でもソラを泣かすからこうなるんだと、責任転嫁だけはやけに俺は上手い。


「自分、ええ度胸やないけ。気に入ったわ。けどな、ちょおお痛が過ぎるな。お仕置きや」


 男がくいっと赤く滲んだ口の端を引き上げて笑った。次の瞬間にはもう赤を見失って、慌てて姿を探すために視線を巡らせたときにぞくりと今日何度目かの背筋が粟立った。後ろだと分かった時にはもう反射速度が遅い。


「グ、ハッ……」


 後ろから衝撃。そのまま前に吹っ飛んで慌ててどうにか受身を取るのには間に合ったけれどさっき彼が突っ込んだラックに飛び込む。一瞬だった。たった一瞬でこの俺が後ろから攻撃を喰らい、そして恐怖を覚えた。


「抵抗すんなや、ガキ。こちとらお前らなんか想像もつかん修羅場くぐっとるさかいな」

「うるせぇ……」

「せやけど度胸も実力も及第点や。サンタゆうたかて力仕事やからな」


 耳鳴りがする。赤い男の声がぼんやり聞こえてくるほどの耳鳴りが。胸を揺るがすような耳鳴りが。あぁ、泣くなよソラ。俺が、守ってやるからさ。もう泣き声に耳を塞いで蹲っていたあの頃の俺じゃない。耳鳴りがする。ソラの泣き声が聞える。
 顔を上げて男の姿を探すと、泣きじゃくるソラの前にしゃがみこんでいる後姿が見えた。男にはもう殺気はなく、ただただ困っているようだ。


「ソラちゃんそんな男前に泣かんといてぇや。お兄やん困るやんか。あーもう……どないせぇっちゅうねん」

「……俺らを帰せば問題ねぇよ」

「帰さへんよ。ジジイどもに怒られてまうもん」


 痛む体を抑えて起き上がると、体の上に乗っていた木片がパラパラと落ちた。随分すごい力でふっ飛ばしてくれたようだ。内臓にダメージが残っているせいで呼吸が上手くできず喘ぐようになりながらもベッドの上で子供のように泣き声をあげるソラの隣に腰を下ろしてそっとその頭を撫でた。子供の頃より不器用でぎこちなくなった仕草に、ヒクッとしゃくり上げてソラは俺を見上げてきた。


「帰るぞ」

「やだ」

「……。帰るぞ」

「やだ!」


 だいぶ泣き止んできたのに首を横に振られて、思わず頭を撫でていた手が止まった。一度言い出したら聞かないのは昔から変わらないが、今回は俺が折れている場合じゃない。ここで折れたら帰れなくなる。つーか俺が帰りたい。


「事態膠着やん。そこで睨み合うん止めぇや」


 帰りたい俺と帰りたくないソラ。必死でにらみ合っていると。男が呆れたように言って肩を竦めたのが視界の端に映った。口の中で「困るのは俺やんか」と呟いている。困るのはお前じゃなくて確実に誘拐されてわけの分からないファンタジーな物語を聞かされている俺だと思う。俺は間違っていないはずだ。そうだろう?そうに違いない。


「よし、こうしよ。これから施設案内してやるわ。そんで、アユミは逃げられる思ったら逃げればええ。ソラは見終わったら大人しく帰る。これでどうや」

「乗った」

「やーだー!」


 どうにか泣き止んで目を擦っているソラは一人文句を言っているが、俺にとってはここから逃げるチャンスでしかないから降りるわけがない。逃げられると思ったら逃げればいい? 逃げるに決まってるじゃねぇか。
 日本の警察はどこにでもいるんだからな。まぁ、ここが日本ならって話だが。




   ×××




 別に予想していたわけではない。見える景色は吹雪で数メートル先も見えないほどだが、北海道もこのくらいかなとは思ってた。思ってたけど、ここは北海道の日本支部ではなく本部だとはっきりと言われた。つまりはヨーロッパ。そんな所からどうやって帰れって言うんだ。言葉も通用しないのに。


「敷地の総面積は、そうやな……最短はトナカイで二日突っ走るくらいやろか」

「どんな規模か全くわかんねぇよ」

「少なくともバチカン市国よりは広いよね」

「それ世界一狭い国だろ。下手な私立のが広いじゃねぇかよ」

「東ティモールよりはでかいんちゃう?」

「だから比較がわかんねぇよ!」


 行ったこともない国で比較すんなというと、赤い男はからから笑って「実習やと世界一周があるさかい心配すんなや」と言った。更に不安になるってんだ。
 俺たちが今までいたのは宿舎で、隣り合って二つの城が並んでいた。何でも一つが教員舎で一つが生徒用らしい。見た目は本物の城みたいだった。さながらのヨーロッパと言うべきかB級ホラー映画のようだとでもいうべきか。少なくとも、蜘蛛の巣とドラキュラの特殊効果はついていても驚けない。そこから数百メートル、馬車で移動。


「わ、すごい。トナカイがいる!」

「トナカイは自分らで育てるんや。マイトナカイが手に入るんやで。ちなみに俺のはマイケル十三号」

「何でマイケル」

「何で十三号?」


 いかん、この状況に疑問を覚えなくなってきている。マイケル十三号はどうでもいいとして馬車の窓から見える景色は想像を絶するものだった。一面の森。日本の雑木林とかそんな可愛いもんじゃなくて、空をも覆うような鬱蒼と茂る森だ。強いてあげるなら富士の樹海だが、好んであんな所に行く人間はいないのであげる意味もないだろう。その姿だけで夜の闇を想像して怖ろしくなった。
 十分くらい経ったころだろうか森を抜けると、かわりに今度は広場のような光景が飛び込んできた。


「グラウンドや」


 この吹雪でグラウンドなんて必要ないと思うが、それは確かにグラウンドと言ってもおかしくないように広々としていたが、広々としすぎてないか? 吹雪の力も手伝って向こう側の終わりが視認できない。ずっとグラウンドが続いている、そんな感じだ。


「そんなに広くはあらへんけど、何をするにも十分や。俺も大概いろんな遊びしたわ」


 更にこの男はグラウンドの奥に更に森があり、そこでトナカイの放牧をしていると言った。逃げんの、不可能なんじゃねぇか?どれだけ広い規模なのか知らないが、吹雪のおかげか敷地を囲う塀のようなものは全く見えない。


「あの建物はなんですか?」

「あれが学舎や。ちなみに、グラウンドの向こうには子供たちに配るおもちゃの工場があるんやで」

「へー。すごいですね!」


 親が準備するプレゼントはどうすんだよ。単純にそう思ったけれどこれは口に出さないで飲み込んだ。ここにいる時点でそんな疑問は抱いたらいけない。俺は親がプレゼントを準備していると知っているのでまだこの団体も信じていない。いくらぬいぐるみが動いたところで、信じる理由にはならない。


「さっさと降りや。中も特別に大公開やで」


 目の前には円柱の形をした建物がそびえていた。猛吹雪の為曖昧だが、屋上が見えないのでこれもまた五十階建てとかそんな冗談じゃない階数なのだろう。
 促されて入ると、思った以上に暖かかった。これなら半袖でも大丈夫なくらいだ。ここの生徒なのか信者なのか、さまざまな格好をした老若男女が友人と談笑したり参考書を読んだりと和やかな雰囲気をかもし出していた。


「あー、フキ兄やんだ!」

「よっす。元気に修行に励んどる?」

「もっちろん。すぐに兄やん追い抜くからさ、期待しててよ」


 赤いパーカのフードを被った少年がやってきて、赤い男と親しそうに会話をするのをぼんやりと聞きながら周りに視線を泳がせる。
 外から見ると円柱だがその中央はぽっかりと空いているようで、玄関エントランスからでもぽかぽかと優しい陽射しに照らされた芝生が見えた。人口太陽だろうか外とは天と地ほども差がある。


「あれ、兄やん。新入生?」

「そーそ、お前と一緒の才能型や。アユミ、こいつはアンフィ。仲良くしぃや」

「……仲良くしねぇよ」


 俺のほうを見てにかっと笑ったそばかす少年から思わず視線を逸らした。何となく笑顔が純粋で、直視できなかった。もともと俺は子供が苦手だ。自分が擦れ切ってしまったことを自覚するのが嫌なのか、あの純粋な笑顔を見ていられない。けれどソラだけは別だ。だから、俺はこの少年も苦手のようだ。


「仲良くしてくれないの?」

「すまんすまん、今流行のツンデレいう奴やから気にすんな。な、アユミ」

「兄やん、ちょっと古い」


 誰がツンデレだ誰が。俺はこれから帰るところだってのに仲良くしたら期待した分このガキが可哀相だ。
 期待はその分裏切られたときに辛いから、できればしたくない。だから愛と夢を与えるとか言うサンタクロースも嫌いなんだ。
 サンタクロースの教育にどう必要なのかはわからないが数々の教室と各階の大教室を見て周り、妙に充実した地下の格技場に案内された。途中で腹が減ったと言えば丁度よくカフェスペースがあって美味い軽食が出てきた。赤い男は交友関係が狭いらしく、特定の人たち以外には声を掛けられることがなくスムーズに回れたが、それでも一回りする頃には日が暮れていた。




   ×××




 俺たちが目を覚ました部屋は、俺のものになるはずの部屋だそうだ。そんなことを言われても俺にはここに留まる意志がないのでピンと来ない。寄宿舎は二人部屋なのでもう一人同居人がいるらしいが、今のところは決まっていないのだと赤い男は言った。俺が出て行く気も失せているのだと確信しているのかにかっと笑顔を浮かべて、そう言った。
 夕食を食堂で済ませて部屋に戻ると、男は明日の朝、正式手続きのために迎えに来るからと言って部屋を出て行った。ソラを帰すのも明日になると言っていたが、明日になったらソラは帰れても俺は帰れないだろう。だから今夜決行するしか俺がここから逃げおおせることはできない。


「ソラ、帰るぞ」

「やだ」

「いい加減にしろよ、マジで」

「マジでやだ」


 昔っから頑固で俺の言うことなんて聞きやしない。今までは諦められたけれど、今回ばかりは譲れない。譲ればそれ即ち自分の未来を閉じることになるのだ。たとえ夢なんてなくても、こんなところで変な宗教団体にサンタクロースにされるのはいやだ。俺は昔からサンタクロースなんて信じていなかったのだから。
 昼間見て回ったのを参考に部屋にあった紙とペンで簡単に地図を作り、それを制服のポケットに四つ折にして突っ込んだ。


「帰るつってんだろ」

「やだ!」

「……勝手にしろ」


 帰りたい、帰りたい。そんな思いが先に立って、俺は制服じゃ寒いとかソラが泣くとかそんなことを考える余裕が一切ないままベッドに座るソラに背を向け、軽く手を振った。次の瞬間には短いソラの声が子供の悲鳴みたいに響いたから、俺は足を止める。本当はこうなることは分かっていた。


「早くしろよ」


 振り返ると悔しそうな顔をしたソラがぶすっとしながらのろのろと歩いてきて俺の背中にポテンと顔を押しつけた。初めからそうやって素直に帰るって言えば俺だってこんなことをしなくて済むののに。それからソラが小さな声で。


「帰る」

「うし。帰ろうぜ」


 まだ口の中で「ポーが……」とか「トナカイ見てない」とか未練をたらたら呟いていたが軽く無視してエレベータに乗り、誰にも見咎められることなく寄宿舎から出ることができた。そこでポケットから地図を出して道筋を確認する。さっき見た限りでは、ここは敷地内の最南に位置している。北側には広大な森が広がっているが、逆にもう少し南に行くと高い壁が見えるはずだ。高さから越えることは無理だと思うが、脱出する所はあるだろう。見たところ古い建物だ。塀に人が通れるほどの穴が開いていないわけがない。


「寒い!生足なのに!」

「ちょっとガマンしろよ」

「でもここ日本じゃないじゃん。どうやって帰るの?」

「大使館ってのは世界中にあんだよ」


 敷地から出れさえすれば、どこの家にでも飛び込んで自分たちが異国で迷い大使館を探していることを伝えれば万事解決するはずだ。ヨーロッパなんだから英語が通じるだろう。ありがたいことに英語は万国共通といえるほど普及して、日本でも英語教育があるのだから。初めて学校で勉強していてよかったと思った。フィンランドの公用語がフィン語だということは考えなくていいと思っておく。
 地図を片手にしていようとも夜の吹雪は俺の想像を絶するものだった。ほんの数メートル先が見えなくなる。朝適当に水で整えた髪はすぐに方々に散らばった。すぐ隣にいるはずのソラの姿すら見失いそうだったから、何年ぶりかに手を繋いだ。久しぶりに繋いだソラの手は昔と違って小さく、冷たかった。


「寒いっていうか痛い!」

「帰ったらラーメン食いたいな」

「アユお金持ってるの?」

「俺の分は」

「あたしの分は?」

「しょうがねーから半分な」


 お互いに声を上げていないと心まで遭難してしまいそうだった。二人で手をぎゅっと握って、声を聞き漏らさないように喋り続けた。真っ暗な空からは襲うように白い氷の粒が降ってきて、俺たちの体から体温を奪う。繋いでいる手が痛くなって、それから感覚がなくなった。それでも手は離れない。


「ミソラーメンがいいな」

「とんこつ」

「ライスもつけて」

「それはお前の金で」

「じゃあマンゴープリンもつける」


 他愛のない会話は口の中に雪を自ら受け入れているようで辛かったけれど、ここで声が途切れてしまう恐怖に比べれば我慢できた。
 俺は方向感覚がいいのが自慢だ。星が出ていなくても大抵勘で進んで合っている。今日もそれでありますように。願った瞬間、ほぼ真後ろでけたたましいベルの音が重く重なって聞こえてきた。俺たちが逃げ出したことがばれたのかとただ素直に思う。思っただけで恐怖も焦りも全くない。ただ聞こえてきた音からこっちの方向で正しいのだと確信できた。


「あの音、なんだろ?」

「警鐘だろ。俺たち逃げ出したわけだし」

「そうじゃなくて、鐘?なんかノートルダムの鐘みたいな」

「いかにもって感じだな」


 古城の塔に忘れ去られたようにひっそりと佇んでいる鐘の音。それはきっと静かなときに聞けばそれなりの威厳と優しさを醸し出すのかもしれないが、残念なことに今はただ耳鳴りのようにしか聞こえなかった。冷えた耳が痛んだ。


「うー、足痛い。アユ、待って」

「何だよ」

「足痛い。ちょっと休憩」

「無理」

 足を止めたソラを振り返ると、泣きそうな顔をしてしきりに首を振った。俺だって学ラン一枚で寒い。やっぱり朝マフラーをしてくればよかったと後悔した。あの時は昼に家に帰れると思っていて、まさかそのまま冬国に飛ばされるとは思っていなかったから気にしていなかった。つーか極寒でマフラー一つあったところで何の役にも立たないか。
 ソラはコートを着てるから大丈夫だと思っていた。何を甘ったれたことを言っているのかと、単純に思っていた。けれどソラは女の子で、女子の制服はスカートだ。足が出ている。剥き出しのソラの足は赤を通り越して青紫になっていた。医学の知識がなくたってこれがやばい状態だと言うことは分かる。
 行動することに何の躊躇いも覚えず、俺は屈むとソラに背中に乗るように促した。


「おぶってやるから乗れよ」

「えっ?」


 早く乗れと急かすと、初めは戸惑っていたがおずおずと俺の首に腕が巻きつけられた。正直もっと重い想像をしていたが、ソラは軽く、そして細かった。まだ男女の差もなければ男女間の照れがない小さい頃は俺がソラをおぶるのは大変で、それでも男の意地で背負った。けれど今は、苦にならないくらいソラは軽くなっていた。


「アユ力持ちだね」

「お前、意外に軽いのな」


 お互いに最後に記憶にあるのは小学生の頃だろうか。男女の違いなんてまだそれほどないあの頃以降、こんなに近づくことはなかった。登下校が一緒でも手を繋いで歩くわけがないし、おぶることもない。だからお互いに、こんなときなのに成長と言う名の変化に驚いている。人間切羽詰るとどうでもいいことを考えると言うのは本当のようだ。
 しばらく歩くと、目の前に巨大な塀が聳え立っていた。思わず出たようなソラの小さい声が吹雪に掻き消されることなく聞こえた。


「これ越えるの?」


 正直、俺にも越えられる自信はない。でも越えないといけないのだ。越えなければ、帰れない。俺は絶対にこんな所から出たいんだから。視界一面が真っ白に埋め尽くされる中僅かな期待をして俺はおぼろげにしかわからない雪と塀の境目に目を凝らした。


「どっか穴開いてねぇか、穴」

「えー。開いてないよ」

「よく探せよ」


 もっと近くで塀を見ようと、雪に沈む足を引きずるようにして近づいた。長い間スニーカで歩いていたから俺の足も限界に近い。でも幸いなことに雪が溶けることはなく靴は濡れていない。ただ歩きなれていないので足が鉛のように重くなっているしもはや温度を感じられそうにない。


「なんか、新しく作ったみたいに綺麗だけど」

「いいから探せ。黙って探せ」


 最悪、約一周して門から出るという手も使える。だからいくらこの塀が真っ白で欠けたところがなかったとしてもそう悲観するものじゃない。と信じてる。
 サクッと踏み出した足が、瞬時に俺に危険を知らせた。塀にまた一歩踏み出し、残り三メートルほどになったところだった。戻らなければと思ったのと足を引っ込めたのはほぼ一緒。これが脊髄反射だと実感。引っ込めたところで足元の雪がずるずると滑り、結果としてそこにぽっかりと姿を現したブラックホールに飲み込まれた。


「キャ――!」


 ソラの悲鳴が俺の鼓膜を激しく揺らしたが、それは右耳を通って左耳から抜けた。真っ直ぐに落ちる。まさかこんな所に落とし穴があるとは思わなかった。ここは戦国時代の城か。国も時代も違うじゃねぇか。
 文句を言う前に落下に備えるべきなのは体が分かっているようで、ソラの腕に力が入って俺の首を絞めた。息苦しさを感じながら、俺も着地の態勢を取る。下が真っ暗なおかげでどれほどの深さかは知らないが。
 ドンッ。内臓に直撃したような衝撃。どうにか足で着地して、その態勢のまましばらく衝撃を散らした。見上げれば地上から二、三メートルくらいの場所なのだと分かる。


「大丈夫か?」

「う、うん。落ちたね」

「落ちたな」


 穴のおかげで雪は吹き込んでこなかった。地上よりも僅かに暖かいがなんの慰めにもならなかった。
 ソラは空を見上げて「ここから下を掘って外に出れば」と馬鹿なことを言ったが無視してここからどうやって脱出しようかと考える。落とし穴とこの施設、二重の脱出が必要なようだ。空を睨んでいると、ひょこっと赤い帽子が覗き込んだ。にたっと笑った顔は、あの男だ。


「アユミ、気ぃすんだか?」


 ひょいと飛び降りてきた男は、暖かそうな赤いダウンジャケットを着ていた。頭には赤い例の帽子。頭上のボンボンが可愛らしく揺れた。そこだけ見れば可愛いが、この男が被っていると思うとなんだか不吉の象徴みたいに見える。


「出られへんて分かったやろ。大人しく帰るで」

「やなこった」

「ならここで野垂れ死にぃや」


 男はつまらないものでも見るような目をしてそう言った。俺はここで死ぬつもりはない。そう言おうと思った矢先、視線をソラの足で止めて男は表情に哀れみを浮かべてまた俺を見た。つられてソラの足を見ても俺には何が危ないのかが分からない。分からないなりに、嫌な予感が胸を去来する。


「余計なお世話かもやけど、お前のせいでソラ死ぬで。足見てみぃ、ほっといたら腐る」


 そっと男の細い指がソラの太ももに触れた。陶器のように白くなっている足。寒い中にずっと曝し続けた、剥き出しの足。一体何のつもりなのか、男のてのひらがソラの足にじっと押しつけられる。その間ソラは恐怖で声も出ないようだった。俺の袖をぎゅっと、弱い力で掴んだ。


「ほれ。凍傷や」


 ソラの足から手が剥がされると、そこには手の形そのままにくっきりとまるで火傷したように水泡ができていた。端の方は白い水泡なのに、中心にいけば行くほど赤から青、そして黒に変色している。ソラが悲鳴を飲み込んだのが分かるほど学ランの袖をぎゅっと握るから、俺の手も痛かった。
 男がおもむろに唇と手を持ち上げる。ゆっくりと指を一本立て、二本立てた。


「選択や。お前に選ばしたる。このままソラの足腐らして逃げるか、ここでサンタになるか。好きな方を選びや」

「……・。……ソラは無事に、帰してくれよ」


 卑怯だ。俺が選べないことを知っているくせに。誰かを犠牲にするほど俺が大層な人間じゃないことを、知っているくせに。
 喉から絞り出した声は自分でもビックリするくらい引きつって泣きそうだった。ソラに気取られたくなくて俯くと、不意に大きな硬い手で頭をかき混ぜられた。その手は温かかった。


「そういうと思っとった」


 知っていたくせに。俺が選べないことを知ってたくせに。卑怯者。
 アユ、とソラの泣き声だけがもう吹雪の音も聞こえなくなった耳に届いたけれど、俺は返事なんてできなかった。ただ真っ白なものに包まれて暖かくて、心地がよかった。





−続−

フキ兄やんは意外に嫌われ者です