朝七時三十分起床、八時に家を出て学校へ。普段はそんな生活だったのに、この施設で俺に押しつけられたタイムスケジュールは、朝六時起床だった。七時半に起きるのだってきつかったのに、六時は最早拷問だ。短くなった睡眠時間の代価として睡魔に捧げられるのは当然授業時間なわけで。
 ソラの治療を条件に俺は養成所とやらで授業を受ける羽目になった。まさか朝起きるだけで挫折しそうになるとは自分でも思わなかったが、授業中に横になって寝たときは驚きを通り越して呆れた。あのでかい学舎の二階のでかい教室は、黒板を中心にさながら大学の教室のように長机がずらっとならんでいる。ポックルとか言うぬいぐるみと一緒に受けるのが原則らしく、机の上に置いておいたらいつの間にか俺の隣の椅子に移動していて、柔らかそうなそれに思わず引き寄せられるようにして体を倒していた。そして気がついたら、授業は終わっていた。どうせ授業についていけるわけもついていく気もないから構わないが。授業は英語で行われているので初日に翻訳機をもらっていた。使ってないけど。だから外国語の滑らかな発音が音楽みたいに聞こえて眠くなるんだ。


「せやかて自分、これ生活態度最悪やん」


 一日が終わるのは十時。それからシャワーを浴びて、あまり疲れていないけれどやることもないからベッドにもぐりこもうとしたとき、あの赤い男がやってきて開口一番そう言った。この男が勝手に入ってくることにはもう慣れたので驚きもせず、不機嫌な声で返した。


「もともとだ」


 ソラの体が戻るならそれで構わない。そのために俺はここにいるんだから。ソラのための犠牲。でも実際は、ソラが俺のための人質で犠牲だ。
 男は遠慮なく部屋に入ってくると、空いているもう一つのベッドに腰掛けて困ったように眉を顰めた。授業中は寝ている。実習はサボる。つまり何も学んでいないしついでに言うと友達もつくっていない。本当にいるだけだ。


「もおちょい真面目にやらんとソラ返さへんで。俺も上に怒られるん嫌やさかいな」

「ソラ帰したら考えてやるよ」

「自分、そんなにサンタになるん嫌なんか」


 男はてのひらでぬいぐるみをいじくりながら子供に言い聞かせるような口調になった。嫌じゃないわけないじゃねぇか。俺は昔からサンタなんて信じていない。ソラが夢を見るから、俺は夢を見ない。そんなおれの心中なんてお構いなしに、この男は歌うように言った。


「サンタは子供に夢与える仕事や。最高やん」

「夢与える人間にどうして格闘の授業があんだよ」


 驚いたことに、授業には格闘技という項目があった。地下の道場に集まって、異種格闘戦の実戦授業だ。殴る理由がない俺はただ打たれっぱなしになって一発も手を出さなかった。おかげで体中が軋んでいるが、相手の拳が軽かったのでそんなにダメージは残っていない。


「サンタって意外に危険なんやで。せやから技術はないよりもあった方がええ」

「……今更いらねぇよ」

「そんなこと言わんと」


 男は何の話をしに来たのだろうか。別に俺の生活態度を改めさせようとしているわけではなさそうだった。しばらく沈黙した後、ポケットから煙草を取り出して慣れた手つきで火を点けた。一本飛び出したケースを俺の方へ向ける。


「吸うか?」

「いらね」


 まだ未成年だっつの。灰皿もない部屋で吸い出した男の煙に眉を寄せ、窓を開けるために立ち上がる。窓から見えたのは雪は降っていないながらも吸い込まれそうなほど黒い空。まるで窓の外には何もないような気がした。


「俺な、前科持ちやねん」


 男が突然、重すぎることを告白した。目の前に前科もちの犯罪者がいたら普通は逃げるとか悲鳴を上げるとか怯えるだろうけれど、俺は思わず硬直してしまった。これもまぁ、正しい反応か。重大告白をした男は紫煙を吐き出しながら上を向いた。


「昔っからサンタクロースに憧れとってん。クリスマスの夜にサンタの真似事したら警察呼ばれてしもた」

「当たり前だ」


 そんなことをする奴の気が知れない。やっぱりここは変な宗教団体なのか。
 俺の突っ込みなんて軽く無視して、男は煙草を時々口に運びながら昔話でもするように少し目を細めた。実際昔話なのだろうけれど、こんなに穏やかな表情で話す内容でもないだろう。


「ほんで、拘置所で俺の上司のサンタに拾われたんや。俺もポックルが見えへんから補助道具使てんねんけど、お前はホンモンやから鍛えれば見えるようになる」


 いろいろ突っ込みどころが満載の話だが、シリアスっぽい展開だから突っ込むのをやめた。何をどう鍛えれば何を見られるようになるのか甚だ疑問だが、流れ的にポックルとやらが見えるようになる。ただ霊感とかを鍛えれば良いのだろうか。
 俺の表情にだけ浮かんだ疑問は、しかし誰にも気づかれずに緩やかに流される。


「サンタがプレゼントやったら親は何してんねんって思うやろ。俺らが配っとんのはモノやない。ハートや」


 子供の頃、目を覚ましたら親父が枕元にプレゼントの箱を置いているところだった。子供心にショックを受けたが、それでも納得したことを覚えている。サンタクロースなんて見知らぬ年寄りが入ってきたらやはり気味が悪いものだ。この男の口ぶりでは入っていくようだが、ということはつまり、ここは不法侵入者の吹き溜まりか。前科もちの男に文句をいうのも突っ込むのもなんとなく怖いので、心の中でだけ突っ込んでおく。


「子供がプレゼントもらって嬉しいって思う気持ちとかそんなもんをな、少しでもたくさん持ってもらえるように、トナカイで幸せを届けるんや」


 幸せ配達人か。サンタクロースよりももっと信憑性がなくなった。でも悪くないと思う俺がいるのも否定できない。ただそれをやる気はないが。もう全てが俺の理解の許容量を越えてしまい、ようやく口から出たのはたった一言。それでも、話が段々核心に迫っていっているのには気づいている。俺が気づきたくなかったことを目の前に突きつけられそうな、嫌な予感だ。


「俺には関係ない」

「お前は人を幸せにする才能があるホンモノや。今日かて格闘の授業で誰も殴らんかったのはなんでや。誰も殴りとぉないからやろ」

「殴る理由がないからだ」

 もう眠い。話していたくない。こいつと話していると、いらいらする。俺は言い捨ててベッドにもぐりこんだけれど、男の声は止まらない。
 俺の見ないようにしている部分が、男の言葉によって露出されていく。それをどうしても止めたかったが、とめる術はない。それを俺は、放棄した。静かな拒絶を示してベッドに潜った俺を追い詰めるように、軽い言葉を投げてきた。その音に反して、俺にぶつかったのは重い音。


「ソラがおらんからか。自分、相当惚れ込んどんな」

「…………」

「明日、送っていく」


 ソラが帰ったらこのバランスが崩れる。ソラがいなくなるから、俺もどうでもいい。どうでもいいから、どうなるかわからない。俺が逃げるかもしれないし、逃げないかもしれない。そんなもの、俺自身にも分からない。

  ――カンカンカンカン!

 本当にもう話を聞いていられないとふとんを頭から被ると、真上から揺れるような振動と共にあの鐘の音が響いてきた。
 何かあったのか。でも俺には関係ない。無関係を装って寝返りを打つと、ふとんの布ずれの向こうから男の舌打ちが聞こえた。それから、「ソラ」という幼馴染の名前。


「ソラが逃げ出したで」

「は!?」

「足はほぼ完治しとる。逃げ出して、たぶんここに来るやろな」


 一人で帰すと言われれば、淋しがり屋のソラは当然俺のところに来るに決まってる。俺はたまらず布団から飛び出した。男が「ここに来るんやから待っとった方がええんちゃう?」と言ったが、警鐘がなっている以上無事ではすまない。ソラは俺とは違い戦うことができないのだから。俺がその分、戦ってきたのだから。


「サンタはトナカイの引くそりに乗るんやで」


 男がベッドの上から動こうとせず、煙草を吸いながら妙にのんびりと言った。その言葉の意味は分からなかったけれど、分からないまま意味を訊く気も起きなかった。




   ×××




 ソラは隣の寄宿舎、つまり教員宿舎の最上階に監禁されていたらしい。それならばその建物から出て、こちらに来るのだろう。だったら俺は、この建物から出て隣の寄宿舎の前で待っていればいい。ただ、まだここから逃げ出す方法は思いつかない。


「何の騒ぎだ?」

「あ、お前新入り!どこ行くんだよ!」

「うるせぇ!」


 見覚えのある顔がちらほらと部屋から顔を出して俺の行く手を阻んだ。中には格闘の授業で俺と組んだ奴もいて、俺を止めるために手を掴んだ。反射的にその手を引いて、勢いに任せてストレートを打ち込む。相手が吹っ飛んだ先を見もしない。そんなものを見ている暇はない。ただ、ソラの許を目指した。
 泣いていないだろうか。それだけがただ気がかりだった。


「アユ!」


 妙に長い廊下を走っていると、どこからかソラの声がした。どこだと辺りを見回してみても当然のように幼馴染の姿はない。「アユ」とまた呼ばれた。今度は落ち着いて、窓の外に目を凝らす。雪の下に小さな点があった。ソラだ。


「ソラ!」


 ソラは笑顔だった。髪を振り乱して、でも笑って手を振っていた。
 躊躇いなんてなかった。近くから殴りかかってきた奴をまた殴り飛ばしてから、窓枠に足を乗せて飛び降りる。外に飛び出してからの滞空時間に一度だけ振り返ると、廊下には倒れている生徒がまるでゲームで雑魚を倒して回ったように死屍累々と重なり倒れていた。
 真っ白くてサラサラのパウダースノー。その上に降り立った。足を折るくらいの高さからでも、下が柔らかかったので少しバランスを崩しただけで無事に着地できた。


「アユ!」

 どうにか着地できたけれど、直後にソラが飛びついてきて結局バランスを崩した。雪の上に尻餅をつくだけじゃ飽き足らず、完全に倒れて首元から雪が入った。首筋に触れた雪は傍から溶けるのではなくさらさらと俺の服の中に入り込んだ。


「アユ、無事? 大丈夫?」

「お前のほうが心配だっつの」

「あたしは大丈夫!足もピカピカ」


 何だよ、ピカピカって。ソラの足はまだ包帯に覆われて肌が見えなかった。
 上から罵声が降ってくる。いつ人が落ちてくるとも分からないので(こいつらにそんな度胸はないと思うが)、俺はソラを肩に担ぐと勘で走った。サンタはトナカイに乗ると男が言っていた。いや、トナカイが引くそりか。きっとここから出るにはトナカイが必要なのだろう。だったらトナカイの所に行けばいい。俺は絶対に、ここから出てやる。


「アユ、あたし走れるよ」

「お前どんくさいからダメ」


 ここは隣り合う寄宿舎の間のようだった。ここを真っ直ぐ行けば馬車に乗る距離だが学舎がある。馬車と言っているが見た目が馬車のそれだけであり、実際はトナカイが引いていた。つまり、この近くにトナカイの小屋があるはずだ。


「ね、どこに行くの?」

「トナカイ」

「トナカイ?」

「トナカイ」


 俺が単語だけを言っていると、ソラが俺に担がれたまま笑った。お互い何がおかしいのか、「トナカイ」と言い合って笑った。笑ったまま走った。
 しばらく走っていると、柵が見えた。その向こうはあの暗い森だ。柵を視線だけで辿っていくと、さほど大きくない小屋が見える。トナカイがいるようなその小屋の隣には名称は分からないが馬車のボディとでも言うのか、箱部分が数台置いてある。ソラを担いだまま、小屋に転がり込んだ。


「これで帰れる……」

「あたし、帰らないよ」

「お前な!」

「まぁだそないなこと言うとんのか」


 安心した俺、きょとんとソラの声。荒くなった俺の声と、赤い男の呆れ声。
 ここにいるはずのない人物の声に反射的にソラを背中に庇いながら姿を探すと、彼は小屋の端にしゃがみこんで煙草をくゆらせていた。ここを俺に教えたくせに帰す気がなかったと、そういうことか。男はゆったりとした仕草で指から力を抜くように煙草を落すと、靴の爪先でそれを揉み消した。茶色い葉末が地面の砂に混じってすぐに見えなくなった。


「アユミ、歯ぁ喰い縛り」


 それから一瞬だった。男の目がすっと細くなり、俺は歯を喰い縛る間も与られずに重い拳を喰らってガードもできずに吹っ飛ばされた。背中を壁に強かに打ちつけて一瞬呼吸が止まる。ずるりと地面に落ちると、乾いた砂が舞った。体を起こすよりも先に赤い男が薄ら寒い笑みを浮かべて俺の前に立つと容赦なく腹を蹴りつけてくる。俺の口から漏れる醜い呻き声は、ソラの悲鳴にかき消された。


「やめてぇ!」

「せやったら自分が代わるか?」

 内臓に直に与えられる振動は痛いを通り越して不快でたまらなかった。薄れる意識。視線がソラを捕らえたけれど、霞みがかって脳が現実だと認識しない。
 男の問いに、ソラはごく自然に首を横に振った。ソラは俺の代わりにならない。男は軽く眉を上げて驚いているが、俺は驚かない。俺がソラを守る。ソラが俺に守られる。それは昔から決まっている。


「代われない。でもアユを守りたいの」

「……何やねんな、自分ら」


 絞り出すような声には多少の呆れと慈悲にも似た色が混じっていた。俺の腹から生産される気持ちの悪い振動が消え去ると泣き顔のソラが俺の横にしゃがみこんで、恐る恐る腹に触れた。そっと触れたはずなのに、鈍い痛みに思わず眉を寄せる。


「どんだけ自分ら大事やねん。俺がアホみたいやないかい。ええわ、もう。お前ら二人でここにおれや」


 ドカッと座り込んで、心底嫌そうな顔でポケットに手を突っ込む。煙草を取り出すのかと思ったら、でてきたのは銀色のデジタルカメラだった。「ほら、こっち向き」とやや不満そうな男の声が耳を叩いたと思ったら、疑問も文句も言う前にシャッターが切られ、閃光が目を焼いた。


「でもお前らは二人で一人前やからな。学生証も一つやから失くしたらあかんで」


 次第にハッキリしてきた視界が、笑った男の顔を映した。ポケットにカメラを仕舞って、当たり前のように俺たちに近づいてくる。ソラがビクッと俺にしがみついてきた。男が俺の腕を取って無理矢理立たせたが、内臓に喰らいすぎて一人で立っていられない。赤い男は「しゃあないな」と加害者のくせに言って、俺の肩に腕を回した。
 今度は俺の治療中(ムカつくことに肋が折れていた。ちくしょう)にできた学生証の写真には、笑顔満面のソラと心底嫌そうな俺が写っていた。




−末−

サンタになりたい