きっとこの出会いは、運命なんかじゃあない。
春ってのはどうしてこうもすべての気力を根こそぎ奪ってくれるんだろう。朝起きたら九時を過ぎていて、当然だけれど家には誰もいなかった。パジャマのままダイニングに行くと朝食がラップもかけられずにおいてあったので、トーストを銜えて新聞持ってリビングへ。新聞を斜めに読みながら朝食を食べ終わったら九時半を回っていた。
始業式だからいいかと手ぶらで、適当に鍵をかけて家を出る。空を見上げると雲ひとつない青空で、学校に行くのがもったいない。いっそふけようか。けれど始業式からふけるのはいただけないから、式が終わるまでには学校に着こうとゆったりと駅までの道を歩いた。
学校に着くと始業式が丁度終わったところだった。ガランとした教室に一番に入って自分の席を探していたら、段々人が戻ってきた。
「あれ、酒井。今来たん?」
「おう。俺の席どこ?」
かったるそうに帰ってきた友達は、教室の中にいる人物の名を呼んで意外そうに休むのかと思った、と言った。黒板と教室の机の並びを見ながら彼は自分の席を探すけれど、眼鏡を忘れたのでよく見えなくて早々にあきらめた。どんどん戻ってくる新しいクラスの連中が知っているなら教えてくれるし、教えてくれなくても空いた席が自分の席だから答えは安易に導き出せる。
「綾肴!お前上手くサボりやがって!」
「おっはー」
「おっつー。あ、お前の席ここ」
誰よりも面倒くさそうに教室に入ってきた友人――和久田憲吾は、ここと言いながらもその席に座った。教室の真ん中よりも少し前の方は、己の名が酒井であることから確実に彼の席だ。間違えても和久田ではない。結局、綾肴は隣の机に浅く腰掛けるように体重をかけた。どうせチャイムが鳴ったところで担任が入ってでも来なければ教室は騒がしいのだ。
「俺の席じゃねぇの?」
「硬いこと言うなよぉ。それよりお前知らないだろ、今年の担任」
「誰?」
「今野ちゃん」
「マジでか。俺ら当たりだな」
担任になったという今野今日子は去年は彼らの学年を受け持ってはいたものの担任ではなく学年の教員だった。まだ担任をしたことがないという話だったから、初めての担任になるだろう。若い女性が担任だと年頃の男子生徒は胸を高鳴らせているらしい。綾肴も表面上ではそう言っていても、本当のところあまり興味はない。
時計を見ると十時過ぎになっていたから、式は相当長かったんだなと嘆息して参加しなかった自分に賞賛を贈った。ナイスタイミングだ。どうやら校長の話が長かったようで、憲吾の話もいつの間にか校長への愚痴に変わっている。この中学の校長は異常に話が長いことで有名で、親からも苦情が来るほどだった。教員一同も辟易しているそうだが、当の校長にその意思は見られない。
「ちょっと。そこ、私の席なんだけど」
どうでもいい話をしていたら後ろから声をかけられて、振り返った。そこがあたしの席と言うことは、椅子に座っている憲吾ではなく机に腰掛けている綾肴にかけてきた声だろう。振り返れば真面目そうな女生徒が立っていた。
第一印象から真面目そう、と思ったのは黒い三つ編が原因だろうか。それとも着崩すことをしらない着方の制服でだろうか。綾肴も憲吾も制服は着崩してなんぼ、という意識でいるからか彼女の目が一番近かった綾肴の制服に止まっている。机から降りると今度は彼女の視線は履き潰した上履きに注がれた。
「悪ぃ」
「今度は気をつけてね。それからその服装、校則違反だよ」
スパスパ物怖じしないで言いたいことを言う娘だな、と言うのが第二印象。自分が正しいと分かっていても人に指摘することなんてそうはできないだろうに、それを難なくこなす彼女に抱いたのは、嫌悪ではなくて好感だった。もとより人には悪意よりも好意を抱く綾肴は席に着いた彼女を見下ろして手を差し出した。不審な視線が向けられる。
「俺、酒井綾肴。よろしく」
「篠崎涼子よ」
差し出された手は握り返されなかったけれど、彼女はしっかりと綾肴の目を見て名を名乗った。別に特別な出逢いではなかった。けれどこれが、彼と彼女の出会いだった。
その後に担任が教室に入ってきて挨拶と新学期の心意気だとかの話があった。教室の真ん中では空も桜も見えないなと思ってぼんやりしていたけれど、隣の彼女は真剣だった。真面目そうだから学級委員とかやるんだろうなと漠然と思っていたら、当然のように彼女は推薦で学級委員になった。
始業式から二週間も済めばもう義務は果たしたとばかりに、屋上で昼寝をする時間が増える。本来立ち入り禁止のはずの屋上は、悪友に鍵を貰っていつでも進入可能で、去年はそこまで使わなかったこの鍵は今年に入ってすでに四度は使われてる。別に季節が春だからじゃあない。隣の彼女が、うるさいから。逃げるように屋上へ登る。
昼休みに屋上で昼寝でも、とやってきたら、すでに先約が煙草を吸っていた。キィと普段は使われることがないドアが軋んだ音を立て、それに気づいた先客が振り返り、片手を挙げて合図してくる。
「よぉ」
「生徒会長殿が昼間っからサボりかよ」
「俺は午後の授業には戻んもん」
堂々と煙草を銜えながら笑みを刷く生徒会長――中原斎が寄りかかるフェンスに近寄って、僅かな間を空けて背を預けた。カシャンと軽い音がして、それを聞きながらそのままずるずると座り込む。見上げた空は綺麗な青で、ここから桜が見えないのが残念だった。桜を見ながらの煙草タイムなんて、幸せこの上ないと言うのに。
そのまま煙草を取り出そうとしたけれど生憎今日は手元にない。隣に手を出すと箱とライターが一緒になって手のひらに乗り、「峰」とたった一文字書かれた煙草を一本貰う。慣れた手つきで火を点けて一服。たまに人の煙草が欲しくなるけれど、やはり一本くらいが丁度いい。手のひらに乗せてそのまま返すと、無言で手のひらから重さが消えた。
「あーさんさ、篠崎と仲良しなんだって?」
「別に。普通だと思うけど」
「ふーん」
「何だよ、その含みのある言い方」
サボり友達の生徒会長殿は何か含みのある笑みを浮かべていて、その意図を問いただすもはっきりとは答えてくれなかった。この場で追求してもいいけれど空を昇っていく紫煙を見ているとそれもかったるくなって、もうこの話題に興味がないと綾肴が口を紡ぐと相手も沈黙してしまう。
しばしの沈黙の後、中原はぽつりと紫煙の合間に言葉を紡いだ。
「篠崎とあんま仲良くしないで」
「は?」
「だって、あーさんとは正反対でしょ」
「なんだ、ヤキモチかよ」
「そーそ。俺、あーさん大好きだから」
「そいつはどーも」
適当に流したふりをしたけれど、本気で流せるほど軽い人間ではない。声の重みは本気だったし、それが綾肴を心配しての言葉ではないことも分かった。席が隣だという以上に彼女は突っかかってくる。生徒会の副会長と学級委員を兼任しているからか彼女の性格か、たぶん後者だと思うけれどことあるごとに文句を言ってくる。遅刻はダメだとかサボるなだとか、ちゃんと授業に出ている時だって寝るなノート取れと口うるさい。彼女に文句を言えばそれが学級委員の仕事だと返ってくるけれど、明らかに逸脱した領分だろう。
「篠原って真面目だからさ、酒井の影響受けるのが怖い」
「俺に言われても」
「うちの副会長たぶらかさないでな」
「だから俺に言うなって」
「あいつ見てると、酒井を好きだって言ってるように見える」
「中原」
紫煙を燻らせてながら紡がれた言葉に応じながら、涼子の顔を思い浮かべた。真面目で人当たりがよくて、友達が多い。誰からも頼られて教師の信頼も厚い彼女と問題児と目される自分には、遠すぎる壁がある。それは綾肴自身が一番分かっているし、きっと言っている中原自身も分かっているのだろう。
自虐にも似た行為を止めるために声をかけると、彼は素直に喋るのをやめた。
「俺と涼子の間には距離がちゃんとあるぜ」
「それを分かってるなら、よかった」
そう言って、中原はふわりと笑った。短くなった煙草を床に落として踏み消して、屋上に自分で持ち込んだ灰皿代わりの空き缶の中に入れる。ひらりと手を振って、授業だから戻るねと言って去っていった。
自分に似た彼を見送って、自分も短くなってきた煙草をコンクリートの床に押し付けて消す。立ち上がる気は起きずにそのまま放置して、ずるりと横になった。視界に広がった空はひどく綺麗で、このまま溶けられたらどれだけ幸せだろう。単純にそう願った。
もともと綾肴に人に執着する気持ちは薄い。家庭環境がそうさせたのか生来の性格なのか、特定の人間と必要以上に近づこうとしない。けれど気がついたら、涼子はそうと定めた線の内側に入ってきている。あの口ぶりでは中原が涼子を好きなのだろう。それでも自分に巻き込みたくないから似ている綾肴に釘をさす。遠回りの自虐だ。けれどそれは綾肴も似たようなものがあるからお互い様か。
これ以上の思考が億劫になって、目を閉じた。今日は暖かいから午後はこのまま昼寝をして過ごそう。適当な時間に憲吾が起こしに来てくれるだろうから、安心して目を閉じた。けれど眠りに付く前に扉の開く音がする。来るのが早すぎだ。
「酒井くん!」
「なんだ、涼子か」
「何だじゃないよ。授業始まるから教室戻って」
「俺、一回休み」
「休むな!あ、何これ煙草!?」
寝ようと思ってたのに耳元でキャンキャンうるせぇなぁ、と正直に思った。いっそ教室に戻れば静かにしてくれるのか。けれど素直に戻るのも癪だし、戻ったとしても授業中に寝ていたら文句を言われるからだったらここで太陽の恩恵を受けて思い切り寝たい。それなのに、涼子は寝かせてくれなかった。投げ出した腕を掴んでどうにか弛緩して完全に寝る気になっている体を起こそうとしてくる。初めは抵抗していようとも、すぐにいやになって自分で起きた。
「おい!」
「煙草は黙っててあげるから、教室に戻って」
「……チッ」
これで告げ口でもされれば中原もろともに太陽の当たる格好のサボり場所を失うわけで、さすがにそれでいいとは思えなかった。結局舌打ちを一つして表面だけが太陽に当たって暖かくなった体で立ち上がる。満足そうに笑った涼子の顔に自分が負けたのかと思ったら悔しくて、おさげの髪を引っ張ってやった。嫌がる彼女に笑って、綾肴のほうが先に屋上から出て階段に足をかけた。
なんとなく、彼女になら怒られても嫌ではなかった。自分たちの違いは分かっているはずなのに、その距離がどうしても明確に見つけられなかった。
大抵の授業を、綾肴は寝るかぼんやりと窓の外を眺めるかですごす。適当に聞いていれば授業なんてものは頭に入ってくるし、テストにどうにかなればいいのだから今のところ困ったことはない。けれど今年に入って、困ったことがものすごく増えた。一つは隣席の女が煩いこと。そうして、それが原因で教員に目をつけられたこと、だ。今までは害なくただ座っているだけの人間は文句よりもスルーされることが多いのに、涼子と言い争うおかげで雷を落とされる経験をもう何度かした。
なんとまぁ自分らしくないだろう、と一人嘆息するも、実はこの姿こそが真の自分の姿だと言う気もしなくもないわけで、結局問題と答えが堂々巡りをするという有様で解決には至らない。結局自分は子供で構って欲しいのか、構って欲しくないのか。その違いだ。
「酒井くん、教科書は?」
「忘れた」
「またぁ?私の見せてあげる」
「いらねぇって」
「だめ!」
授業が始まっても教科書を出さずにルーズリーフとボールペンだけが机上に投げ出されている状態を見て、毎回こう言われた。どうせ見ないから教科書なんて持ってきていないと言えば、いつもどこか大人びた顔で怒って机を寄せてくる。二つの机の間に落書きが一つもないきれいな教科書がおかれる。けれど綾肴はその教科書を見ずに、彼女の横顔を見てすごす。
彼女が苦手な理由はきっと、彼女が綺麗過ぎるからなのだろう。真っ直ぐで屈託なく笑え、面倒見もいい。そうして、困っている人には誰にだって分け隔てなく手を差し伸べる。お節介だと言っても譲らないそれは一歩踏み間違えると余計なお節介なのに、彼女のそれは不快ではない。きっと綾肴は、時折大人の顔をする彼女が嫌なのだ。
「そこ、計算間違ってる」
「どこ?」
「ここ。何で二になんだよ、一だろ」
一掛ける一が二になんてなるわけがないと間違い箇所を指で指すと、真面目に黒板とノートを行き来していた視線が綾肴を捉える。真面目な彼女の瞳の中では不真面目な男がへらりと笑っていた。じっと目を凝らしてその式を見ていた涼子は、ハッと気づいたようで消しゴムでその部位を擦っている。
「バーカ」
「うるっさい。自分でも計算しなさいよ」
「俺、暗算してるし」
「嘘。じゃあ答えは!?」
「さーん」
「残念でした、五です!」
「はっ!?どっからどう見ても三だろ!」
「五ですー!酒井君の暗算はポンコツなのよ!」
「お前が間違ってんだろ!?」
初めは小声でしていた会話は、段々状況を忘れてデッドヒート。終いには二人で立ち上がって己の主張をわめき散らす。いつもくだらないことで口論になって、最後はいつも同じく怒りを体で表現しているような教員に一喝されて職員室コース。本日も同じコースを辿るようで、数学教師の咳払いで我に返った。
「酒井くん、篠崎さん。あとで職員室までいらっしゃい」
「……はい」
「…………」
「酒井くんも返事!」
「……へーい」
「酒井くん!」
きっと教員のイメージの違いと言うのはここにあるのだろう。綾肴は反省の色を見せない生返事で先に席に着いて頬杖をついているのに対し、涼子はその場で申し訳なさそうに俯いてしかも綾肴にもしっかりと謝らせようとしている。それが生徒会長殿の言うところの悪影響と仲良しさなのだろう。普段自覚がないのに今日ばかりは納得した。
授業が終わるまで二十分、残りの時間こそ大人しくしていようと思ったのか綾肴が話しかけても涼子は取り合わなかった。そうして自分は結構構って欲しい人間なのかと思い当たる。まさか、と否定が半分と納得が半分だった。
「起立、れーい」
間延びした号令が聞こえて、自分が半分夢の中にいたことに気づいた。春の気温のせいにしようと思ったけれど生憎の花曇にそれはできそうにない。教科書をまとめながら教員は寝起きの綾肴と落ち込んでいる涼子を見やって職員室に着なさいと、進級してもう何度か聞いた言葉をそれまでの教員と同様に口にした。
特に何も気にしないで教員について職員室に行く間に、涼子はずぶずぶと落ち込んでいくけれど、綾肴は欠伸をかみ殺していた。すれ違う教員がそんな二人を見て笑いながら涼子にだけ声援を掛けていくあたり人望の差と言うのが明確だ。
職員室に入ると、自分の椅子に座った教員はそれまでの教員と同じように二人を見て、嘆息する。
「君たち、授業妨害を日に何度すれば気がすむんですか?」
「すいません……」
「私の授業だけじゃあないでしょう。廊下でも追いかけっこをしているようですし」
「それはっ!それは酒井くんが悪いんです!」
こうして説教を食らうたびに、涼子は同じ言葉を口にする。酒井君が悪いんです、と。今日もその言葉を吐き出して彼女は顛末を早口に説明し始めた。即ち、涼子の読みかけの本を綾肴が奪って逃げた。そうして始まった追いかけっこは憲吾には「お前よく篠崎にちょっかいだすよな」と言われたし、こういうところが中原の言うところの仲良し、なのだろう。
理由を話し終わった彼女は肩で息をしていて、思い出したのか足を踏まれた。睨みつけてもそっぽ向くあたりがかわいくない。
「篠崎さんは反省しているようですし、今日はいいでしょう」
「ありがとうございます!」
「涼子!テメェっ」
今回もまた涼子だけ解放されて、綾肴は残された。もう一度頭を深く下げた涼子が軽く手を振って戻っていくのに俺を売りやがってと声を尖らせるけれど、彼女はさっさと姿を消し残ったのは難しい顔をしている教師。また同じことを繰り返して言われるのかと、嫌になった。どうせ聞き流しているだけなので全く答えないけれど、時間がもったいない。
中原の言うところもよく分かるし、憲吾が含みのある言い方でよく突っかかると言うのも分かる。見ていると彼女の邪魔をしたくなってくる衝動がある。こっちを向けと念じるほど子供ではなく、寂しがり屋でもない。そんな自分の姿はかなり幼い頃の記憶で、母の邪魔をした。仕事をしている母に構って欲しくて、部屋を汚したり物を壊したりした。けれどもうそんなことで気を引くほど子供ではない。
「よく反省するように。教室に戻ってもいいですよ」
「あ、はい」
全く聞いていなかったけれど帰っていいといわれたので教室に戻ることにした。このまま授業に出るのもかったるいし気分じゃあないから屋上に行ってさぼろうかと考えながら、自然にポケットに手を突っ込んで職員室を出た。よく考えれば実質五分もなかったんだなと気づいて軽く驚いた。
職員室から出て、扉の前にやっぱりあった姿になんだか苦笑が出てきた。面倒見がいいというかお人よしなんだ、こいつは。
「やっぱりいんのか」
「だ、だって……酒井くんばっかり怒られてるのもあれかなって」
「人のこと裏切っといて言う台詞かぁ?」
きっと彼女にしてみれば見張りもかねているんだろうけれど、それでも職員室の前で待っているなんて行為が馬鹿らしかった。毎度毎度綾肴を裏切って先に開放されるのに、綾肴が出てくるまで待っている。まったくそんな性格だ。
外にいこうと考えていても彼女に引っ張られるようにして授業に出させられ、そうしてまた口論になる。何度同じことを繰り返したら気がすむのかしらないけれど、でもその時間は嫌いじゃあない。
そのままの関係が二ヵ月も続けば立派なもので、いつか切れると思っていた綾肴は意外に大らかな自分に驚いた。席替えを二度して、その度に良子が隣になるんだから仲がよくなって当然かもしれない。涼子も涼子で、諦めるかと思っていたら未だに綾肴を授業に出そうとするし、文句も言う。
期末テスト前の木曜日、まだ梅雨が明けきらないのに珍しく晴れた。雨が大気の汚れを飛ばしてくれたおかげか太陽が直にさんさんと当たるような感じが不快で、この時期からは日陰に移動する。そこで少し眠っていたら、もう慣れた気配が入ってきた。いつの間にかこれは、いつものこと。
「酒井くん!また煙草!」
火を点けたまま指の間に挟んで、そのままうとうとしてしまったようだ。叫ばれてそういえば半分も吸っていないことを思い出す。けれど上瞼と下瞼が離れようとはしなかった。煩いのが来たくらいの感覚でうっすら目を開けるとあのお下げが指の間から煙草を奪ったところだった。目で追いかけていると、それ床に落として足で踏んづけ持参した袋に入れる。ポイ捨て禁止派とかじゃあなくて、そこまでする奴を初めて見た。
「灰皿あるけど」
「そんなもの持ち込んでるの!?」
「空き缶だけど。つか、お前うるせぇ」
起きていたことには気づいていたのか、涼子はさして驚かずに隣に腰掛けた。拳二つ分隣に座った彼女の半袖のシャツから覗く腕が妙に白かった。学生は夏は半袖のシャツを着用というのをしっかり守っているのは今時珍しい。自分の長袖シャツを捲った状態を見下ろして、やっぱりこいつは変わっていると思った。
「チクるっつって、全然言わねぇのな」
「……だからこうやって物的証拠集めてるのよ」
「嘘吐け」
喉で笑って、お前のことだから教師に「酒井君が煙草持ってます」とか言えば速攻で捕まるのに。それをしない彼女は真面目なんだか、真面目じゃないんだか。初めは鬱陶しい存在かと思ったけれど涼子は接せば思ったよりもサバサバしていて、接しやすいことが分かった。
思わず喉でクックッと笑って、眠気覚ましに新しい煙草に火を点けた。一口口をつけた途端に睨まれるけれど、気にしないで深く吸い込んだ紫煙を吐き出す。
「どこで煙草なんて覚えたの?」
「親父の煙草くすねてる」
「不良……」
「ありきたりだろ」
いつ帰ってきているのかもわからない父親からくすねたところで文句を言う人間はいない。くすねたことが分かっても文句を言われることはないだろう。そんなに息子に関心がある親じゃあない。適当に笑って誤魔化すけれど、涼子は悲しげな顔をしていた。なんでそんな顔ができるんだと、思ったけれど口には出さないで、代わりに紫煙を吐き出した。そうして言葉は、空に溶ける。
「未成年の癖に」
「お前にゃ関係ないだろ」
「あるわよ。私、学級委員なんだから」
「それこそほっとけよ。俺になんかに関わってたらお前までなんか言われんぞ」
「私は悪いことしてないもん」
これはきっと、最後の確認。この言葉に僅かでも傷ついた顔をしたら綾肴はすべて終わりにする気でいた。自分の中に芽生える友人とも違う気持ちと、中原からの忠告はちゃんと理解している。けれど彼女は全く表情を変えることなく自分には関係のないことだと言った。だから、吸い込んだ紫煙に乗ってその言葉が出た。
「なぁ、キスしようぜ」
「え……」
「減るもんじゃあ、ねぇし」
紫煙が混じった言葉は空中に霧散し、その後を追うように綾肴の右手が唇の煙草を浚って涼子に触れた。ただの触れるだけの、子供の戯れ。紫煙でざらつく舌でべろっと赤い唇を舐めてから顔を離すと、涼子は目を大きく見開いて固まっていた。思わずその顔に吹き出してしまい。ひどいと叩かれた。
それでもこれまでの関係が変わってしまうとは思っていなかったし、この口付けが当然のことのように思えた。けれどテスト期間から続く行事に再び唇が触れ合うことはなく会話する回数も減った。そうしてそのまま、夏休みを迎える。
−続−
言葉もありません