夏休みの間、綾肴は時間を持て余したように日々をすごした。人は長いと言う夏休みをそうやって消費し、気が付けばカレンダーの日付は八月三十一日を指していてさすがに焦った。体感として全く日付の概念がなくなっていたから、それを教えてくれたのも何の連絡もいれずにやってきた憲吾のおかげだった。


「お前夏休みに何してたんだよ?」


 偶然家にいたからよかったものの今までどおりにいなかったらどうしたんだ。宿題を持ってやってきた友人にすっかり忘れていたと言えば、彼は目を剥いてありえないというけれど、だったら自分はどうなんだと言いたくなった。綾肴が家にいたのだって、朝日が昇る頃に帰ってきて寝ていたからであと一時間も遅ければふらりと静岡にでも行っていただろう。場所は決まっていなかったけれど、家にはいなかったと思う。なにせ、休み中で家にいたのは眠っている時間くらいだったから。 一応家に上げてお茶を出せば、憲吾はテーブルに持参したプリント類をぶちまけて綾肴の非を責めた。


「何もしてねぇよ。お前もそうだろ」

「俺は部活!綾肴部活入ってねぇだろが」

「あっち行ったりこっち行ったりしてた。北海道から東北とか」

「家族で?」

「一人で」


 しれっと綾肴は言いながら冷房をつけた。機械から吐き出される風はすぐには部屋を冷やしてはくれないけれど、おそらく一時間もすれば過ごしやすい気温になるだろう。憲吾はお茶を飲みながらやっぱりな、という顔をしているのが妙におかしかった。
 夏休みを利用して北海道から東北を一人で旅行した。親の承諾はメモ用紙一枚をおいておくだけで朝になれば取れている。二週間家を空け、それ以外は日帰りで近場に出かけたりふらふらと出歩いてすごした。そうして気づかされれば短い夏休みは終わりを迎えようとしていた。


「相変わらず冷めた家族」

「今更だろ」

「ま、ね」


 冷めた家族なのではなく、冷えた家族なのだと思っている。父親は仕事で海外出張が多く年半分は海外にいるし、母親も好きな仕事をしている。当然幼い頃から家に誰もいないことは多く、今では気侭でいいと思っているが憲吾は寂しくないのかと聞いてくる。それに対して寂しくも悲しくも、特に何かを思ったことはない。寂しいと言う感情の意味を、綾肴は理解できていない。
 それにしても宿題どうしよう、と頭をかかえる憲吾を見ながら同じ状況の綾肴は全く危機感を感じずテレビをつけた。急に白々しい音がリビングに響き渡り、すぐに指が音量を下げる。


「お前、そんな落ち着いててどーすんだよ」

「まだ時間あるって。提出、授業の頭だろ」


 宿題の提出は新学期の初めの授業毎に集めるので、提出は明日ではない。実際に数学なんて来週に持ち越されるが、国語の課題は明後日の提出だ。だったら明日学校に行って誰かから宿題を奪えばいいことで、やってできないことはない。何せ、生徒会長殿が自らそう言っていた。
 煙草に手を伸ばしながらそういうと、憲吾は驚愕した後表情を弛緩させた。そういうことを全く思いつかなかったあたり馬鹿だな、と溜息が一つ。


「ところで綾ぽん」

「……それ、俺のことか?」

「もち。篠崎さんとはどーにかなった?」

「何で涼子なんだよ」

「仲いいじゃん」


 ここにも一人邪推する奴が嫌がった。どうもこうも特別な感情なんて持ち合わせていない。仲がよく見えたところで好きな子ほど苛めるなんて餓鬼ではないし、そもそも嫌いではない。好意自体は持っているはずで、それでなければ自分がこんなに突っかかるわけがない。けれどそれが恋かと聞かれたら、やはり否定するだろう。


「綾肴ってさ、感情薄いんだよ」

「あん?」

「人を警戒してるって言うか?んで、中に入った奴にはすっげぇ心開くタイプ」

「何だそれ」

「だってそうじゃん。篠崎さんに心開いてると思うけど」


 なんとなく自分を言い当てられたようで不快だった。これを不快と感じるのならばきっと憲吾の言っていることは合っているのだろう、図星を突かれたときでなければこうは感じない。確かに自分には人を拒絶するところがあって、線引きをした中に涼子は入ってきた。だからと言って、恋であるかと聞かれればやはり疑問で。
 けれどこれ以上自分の中を捜索すれば恋心というものが見つかってしまいそうで、結局これ以上の会話を放棄した。










 新学期が始まり登校すると、クラスの半分ほどが日焼けしていた。みんな口々にどこに行っただの何をしただのと話しているけれど綾肴は特に興味もなく、相変わらず窓の外を眺める。憲吾はさっきから教室中を走り回って宿題を借りる手はずを整えているようだ。
 そんな努力をしなくても綾肴は効率的な方法を知っていた。だから、おはようと言う涼子に挨拶も返さなかった。


「宿題貸して」

「は?」

「宿題。数学と理科と英語」

「まだ終わってないの!?」

「だから頼んでんだよ」


 終わってて頼むわけねぇだろ、と言えば、席に着きながら涼子が呆れた顔をしている。そんな顔はどうでもいいからさっさと出せ。面倒見のいい涼子なら宿題を貸せと頼めば貸してくれるはずだと分かっていたから頼んだが、これがもしかしたら仲がいいというのかもしれない。


「自分の力でやりなさいよ」

「は?貸さない気かよ」

「当たり前でしょ」

「俺には貸してくれると思ってたんだけど」


 どんなに渋っても最後には貸してくれると思っていたのは、信頼。他の奴には最後まで自力で頑張れというのに、自分だけにはしょうがないなと貸してくれると信じていた。心のどこかでショックを受けて、その後で自分に嘲笑のような苦笑が浮かんだ。何だって人なんかを信頼したのかという、冷たい微笑。誰かに裏切られることを恐れた臆病者の意見だけれど、綾肴は自分が臆病者だと知っているから堂々と宣言できる。自分は誰も、信用しないと。


「……国語は?」

「あん?」

「明日提出の国語、どうせやってないんでしょ。取りに来れば貸すわよ」

「マジで?行く行く」


 やっぱり貸してくれたと安堵し、安堵した自分に驚いた。やはり彼女に期待している。国語なんてバックレようかと思っていたところのありがたい申し出に二つ返事で頷いて、まだ残暑が厳しい中始業式に参加した。蒸し暑い体育館で校長の話の最中に五人の生徒が倒れたけれど、それでも尚校長は十分以上話し続けた。
 式が終わり担任の話も終え、帰り道に涼子の家に寄ることになったのでそのまま一緒に教室を出た。


「家から正反対じゃん」

「そうなの?あ、だから小学校違うんだね」

「学校遠いのか?」

「十分くらいだよ。結構近いほう」

「家から三十分かよ」


 綾肴の家は学校を挟んで二十分かかる。これは普通に歩いての時間であって、綾肴の登校時間は四十分かかるが下校は二十分弱だ。中学校が二つの小学校の学区が一緒になっているため、隣の学区は同じクラスでも遠く感じられた。この暑い中やってられないと言えば、涼子は宿題のためでしょと笑った。テクテクと陽炎が上りそうな道を歩く。夏休みの間何をしていたとか、話題は意外にあって盛り上がるわけではないが会話は付きそうにない。


「それで宿題やらなかったわけ」

「忘れてただけ」

「なんか、酒井くんて浮世離れしてる」


 夏休みにした一人旅の話をしたら、涼子は目をまん丸に見開いた。確かに普通の人は思いつかないだろう、綾肴だって知り合いに教えてもらって実行したのだから。この話をしたとき憲吾は普通実行しないと言ったあたり綾肴はやはり普通ではないのかもしれない。けれどそんなに自分を異常者に仕立て上げる趣味もなく、綾肴は自嘲で自己完結する。悪い癖だ。


「それ、いい加減にしろな」

「それ?」

「名前。苗字で呼ばれんのすげぇ違和感あんだけど」

「そう?」


 暑いから頭に血が上っているのかもしれない。普段呼ばれ方なんて気にしないのに、何となく口をついた。そういうところが浮世離れしてるんだよなぁ、なんていう失礼な言葉は聞き流してやってついでに返事もどうでもよくなって足を投げ出すようにして歩調を涼子に合わせる。
 あまりにも暑くて目に入ったのは、コンビニだった。本来は買い食いは禁止されているが昨今守っている奴なんていない。特に綾肴は普段制服で雰囲気の悪い店に入ったりするので悪いことだという意識はすでにどこか彼方へ飛んで行っている。


「暑いからアイス食おくぜ」

「登下校中の買い食い禁止」

「奢ってやるよ、宿題のお礼に」

「だから禁止!」


 買い食いはダメと言い張る涼子は正しいのだろうけれど、暑いのと正しいのどちらを取るかといわれれば綾肴は即座にアイスと答えるだろう。腕を取って引っ張る涼子を多少鬱陶しいと感じながら、それでもコンビニに入った。迎えてくれたのはドアベルと寒いくらいの冷気、そして店員のだらけきった声。


「ダメだってば!」

「うっせぇな。俺が干からびたらどうしてくれんだ」

「そしたら水ぶっ掛けて戻してあげるわよ!」

「戻るか。じゃあお前は食わなきゃいいだろ」

「そういう問題じゃあないでしょ」

「『私はやってない』んだろ。お、パピコ」


 いつものように逃げればいいし、そもそも見つからないと言えば涼子はぐっと押し黙った。その一瞬に冷凍ケースの中からチョコレート味のパピコを見つけて手を伸ばす。はっとしてももう遅く、しっかりとそれを手にしてレジへ持っていった。ポケットから百二十六円ぴったり出して、レシートはそのままレシート入れに突っ込んだ。パッケージにテープを張ってもらったけれど、外のゴミ箱に袋を捨てた。
 口を引っ張りあけてそれもゴミ箱に入れて歩き出せば、ぐちぐちと文句を言いながら涼子の目がじっと綾肴の口元を捕らえる。チョコレート味のシャーベットをすすりながら手に持ったもう一本の口もあけた。コンビニから十メートルも離れていないところでそれを口に突っ込んでやった。


「物欲しそうな顔してんじゃねぇよ」

「してない!」

「してた。これで共犯だからな」


 にやりと笑って、銜えたパピコ同士でキスをした。それは口付けとはいえない触れ合いだけれど、なんだかくすぐったい気持ちになった。不満そうな顔をする涼子に笑って、ずるずるとどこか優しい味のするシャーベットをすする。
 涼子の家に着くと外で待っててと言われ、しばらく炎天下の中で待っていた。ばたばたと中から音がして、宿題のプリントやらが入っている紙袋を押し付けられる。絶対に忘れないでねという言葉に頷いて、なぜか家まで涼子は付いてきた。ちゃんとやるか見張るなどといわれ、結局彼女は六時近くまで綾肴の部屋に居座った。もちろん色っぽい雰囲気にはならなかったのに、何度かバニラの味がする口付けを交わした。終わった宿題も一緒に彼女を家まで送っていく際に、それまで否定した恋心というものを、綾肴は形骸的に受け入れた。










 甘い言葉など何もない、恋心だとも心の底では認めていない。だから二人の間に変化など訪れなかった。席替えをして離れても涼子は綾肴に文句を言って他愛のない話をして、いつの間にか一緒に帰るようになった。涼子の部活が休みの一日だけ涼子を送って行った。目に見える変化といえば、いつの間にか呼び方が「酒井くん」から「綾肴」になったことだろうか。やはりこっちの方がしっくりする。そうして何度か、キスをした。それは三年になってクラスが分かれても変わらなかった。
 それでも綾肴は、この恋心を恋だとは認めないでいた。なぜなら恋というもの愛というものも明確に規定がないから判じかねている。それでも彼女の隣は安らぐのは確かだ。


「綾肴、高校どうするの?」

「普通に県立行くつもりだけど」

「なのに模試は受けない、と」


 二学期も半分が過ぎに入り、教師は揃って志望校の提出を求めてきたし三者面談も行われる。けれど綾肴は特に何をしなくても近い高校にいくものだと思っていたし、当然涼子もそうだと思っていた。希望だとか志望だとではなく、そういう流れになっていると思っていた。実際、三者面談の知らせのプリントをリビングのテーブルに載せておいても、希望日の欄に記入があるだけで直接何かを尋ねてきたことはなかった。


「模試なんて受ける意味あんのか?」

「あるよ。もう、やっぱり次は一緒に行こ」

「いいよ、面倒だし」

「だめ!」


 憲吾も模試だ塾だといっているけれど、それを尻目に綾肴は何もしない。どうにかなるという根拠のない自信が常にある。相変わらず押し付けにも似たお節介を焼いてくる涼子に多少辟易して入るものの、聞き流さずにいるようにはなった。受験には模試が必要だと涼子が熱弁してくれているのを片耳で聞きながら空を見上げると、燃えるようなオレンジ色をしていた。


「そういうお前はどこ行くんだよ」

「私?私は私立にしようか悩んでる」

「なんで?」


 ただ彼女の説教を切りたくて言った言葉なのに、少し気まずそうな顔で私立にしようかと言われて綾肴の方が驚いた。当然彼女も公立に行くんだと思っていたし、この近辺なら限られているから同じ学校だと思っていた。思わず責めるような音が口から零れた。明らかに動揺して涼子は足を止めた。
 家の十メートルほど前で足を止め、数歩進んだ位置で振り返る。彼女の顔は髪に覆われて見えなかったけれど彼女からは綾肴の顔も逆光で見えないだろう。


「あ、のさ」

「何だよ」

「私たちの関係って……」


 表情を窺うことはできないけれど、涼子が口を開いたのはわかった。十分に躊躇った後、細い声で何か言葉が紡がれる。けれどその声を聞き取ることはできなかった。背後でカンカンと金属の階段を降りる音がして、子供の甲高い声が悲鳴のように聞こえてきたから綾肴はそちらを振り返った。


「あーちゃーん!」

「お、っとと」


 駆け寄ってきた子供を抱きとめて、綾肴は振り返った。そうして会話を中断してゴメンと言おうとするけれどその瞬間に少女が「あーちゃん、あーちゃん」と綾肴の愛称を連呼する。思わず口を塞いで今度こそ涼子にゴメンと謝れば首を振られた。
 駆け寄ってきた少女は向かいのアパートの一室に母親と住んでいる少女で、高野燈という。綾肴よりも九つも年下で今年小学校に上がったから幼馴染とは言えないかもしれないけれど、似たような関係だ。一人ふらふらしている綾肴と母親が働いている燈は兄妹のようにして育った。まだ母親は帰ってきていないのか、無邪気に駆け寄ってきた明かりが綾肴の向かいの人物に気づいて掴んだ制服を引いた。


「この人だぁれ?」

「ん?彼女」

「えっ!?」

「なんでお前が驚くんだよ」


 飛んできた質問にそれがたとえ形骸的な物であっても型付けをして言葉に出すと、自分でもあぁこれが彼女かと思った。びっくりしている燈よりも更に驚いた涼子が目をまん丸にしている。感情はどうあれ綾肴はそうだと思っていたし、その関係だと思っていた。こんなに驚かれるとは思っていなかった。逆に冷静になって問いかけると涼子はしばし「だって」と消え入りそうな声で呟いて手で顔を覆った。


「だって……友達以上恋人未満的な……」

「そんな認識かよ」


 まぁ、似たような認識だったけれど。苦笑して綾肴は初めて涼子の手を握った。反対の手で燈の手を握って、数十メートルを無言で6歳の歩調にあわせるのでゆっくりとになってしまいその時間が非常に長い。手早く家の鍵を空けて初めて家の中に招き入れる。何かを察したのか燈がリビングでテレビを見ているというので、綾肴は涼子を自室に促した。もう何度も入っているのに、彼女の足は遅い。
 部屋の電気と暖房をつけて、荷物を机の上に投げ出した。いつもならばベッドに座る涼子は今日は床にぺたんと座っている。こちらまで動揺しそうで、それを誤魔化すために軽く足蹴にして机の椅子に座らせた。


「……黙ってんなよ」

「うん……」

「…………」

「…………」

「……黙んなって」

「……綾肴こそ」


 お互いに意識しているからか沈黙が続く。こんなことなら燈がいてくれた方がよかったと思ったけれど彼女は現在リビングだ。とりあえず彼女を呼んだ目的である本を彼女に押し付けるようにして渡した。ベッドに腰を下ろした綾肴は軽く頭をかき回し、小さく舌打ちを一つする。こんな居心地が悪い沈黙が続くなら、名称なんてつけなければよかった。


「私さ」

「あん?」

「やっぱり県立行く」

「……いいのか?」


 さっき悩んでいただろうと問うけれど、はっきりと頷かれたら言葉もない。黙っていると、涼子の方が気まずくなってしまったのかぽつりぽつりと理由を話し出した。
 続いた綾肴との曖昧な関係を断ち切るためにという裏の事情も持って受験校を選んだけれど、それでも断ち切れそうになかったと半分泣きそうになりながら涼子は話した。涼子もいつから綾肴が気になったか分からない。気が付いたら、隣にいるのが当たり前になっていた。


「綾肴の一言で、はっきりした。私、綾肴が好き」

「そっか」


 泣きそうな顔をしてくしゃっと笑った涼子に向かって、手は自然に伸びていた。今までとは違う気配に涼子はびくりと肩を震わせ、しっかりと目を閉じる。もう何度もした口付けを再び行いながら、それでも綾肴は自分の恋心を疑った。彼女が好きで、隣にいて当たり前というのがそれならば好きでいいけれど、この気持ちは言葉にはならない。


「だから、同じ高校行くために勉強するわよ!」


 唇を離した途端に逃げるように宣言されて、ようやくいつもの空気が戻ってきた。そんなに偏差値高い学校ではないと言われているから大丈夫だと綾肴は言ったけれど、涼子はダメだといって模試にも勝手に申し込んだ。そうしてほぼ毎日、綾肴の部屋で一緒に勉強した。これじゃあ中原に怒られるなと思ってはいたけれど、この時間が嬉しいのも事実だったから綾肴は何も言わない。
 距離感は今までと同じで、卒業の日を迎えた。






−続−

歳の差九つの幼馴染