近隣の公立に進学する人数は学年の四分の一にも上ると聞いていたので、入学式には特に気にしていなかった。クラスにも二、三人は知り合いがいる状態だから、気を改めてなんてのはもともと無理な相談だったのかもしれない。四月が過ぎて五月になれば友人たちの顔と名前も一致してきて人間関係もつかめた。
 憲吾も涼子も同じ学校に受かったものの、クラスはみんなバラバラになった。お互いにクラスに別に友人ができたから中学のときのようにずっと一緒にいるわけではないけれど、家の方向も同じだからそれなりに顔を合わせている。


「あーさん、いいものあげる」


 秀才の中原がなぜか同じクラスであることに綾肴は二月目に差し掛かった今も疑問を感じている。何となく彼は私立に行くのだと思っていたので入学当初に聞いてみたところ、こっちの方が面白そうだと返された。そんな彼は新入生代表の言葉を入学式でこなしていた。昼休み、友達になった木村修平と昼食をとってからくだらない話をしていたら煙草のにおいを含ませた中原がどこからか戻ってきて銀色のものを差し出した。


「鍵?」

「屋上の。午後付き合わない?」


 中学の頃は暗黙の了解で二人の煙草スペースだった屋上。一年の分際でどうやったのかは知らないけれど物で釣るように目の前で鍵をちらつかせるのに飛びつかないわけがない。それを浚うように奪うことで了承の意を示し、席を立った。弁当箱を手早く包んで鞄に放り込み、ついでに鞄のポケットから煙草とライターを取り出して素早くしまう。灰皿はと中原に問うと用意してあると答えが返ってきた。相変わらず用意周到だ。
 修平に手をひらりと振って二人で教室を出た。予鈴がなるまではまだ十五分近くあるけれど、こんなにいい天気の日に午後の授業に戻ってこられるとは思えなかった。教室が四階のこともあり、階段を上がってすぐに屋上に出た。校舎三棟が縦に並ぶ形のこの学校の中央の二号棟が一階分低くなっていてそこは昼休みのみ開放されているが、この三号棟は長く誰も入らなかったようで扉が軋んだ。


「特等席じゃん」

「でしょ。あっちからは見えないしね」

「灰皿は?」

「はい、ちゃんとした灰皿でしょ」

「規模がでかい」


 屋上についてすぐに煙草に火を点けた。灰皿を探すと、扉の影においてあったペンキの缶を中原が持ってくる。どれだけ吸うつもりなんだと突っ込もうと思ったけれど、二人で吸ったらもしかしたらすぐにいっぱいになってしまうかもしれない。
 適当なところに腰を下ろして紫煙を真っ青な空に吐き出す。こんなにいい天気だったら学校になんて来なければよかった。どこか適当な公園でのんびりとしていたら気持ちよかっただろうに。そう思ったところで授業をサボってここにいるんだからそれも変わらないと思うけれど。けれどたまに、この制服がひどく窮屈に思える。


「どっか行きてぇな」

「旅行好きね」

「まぁな」


 風と太陽に誘われるままどこかに行ってしまいたい。思わず呟いた本音にこめた本来の意味を読み取ったかのように中原が含みのある笑みを浮かべ、それが気に食わなくてぶっきらぼうに返事を返した。
 どこかこの世界ではないところに行きたいという願望が生まれたのは、十歳を超えてからだった。おそらくは自分が存在していない世界に行きたいという願望なのだろうけれど、当時はただたんにどこか旅行に行きたくてたまらなかった。今覚えはその頃からこの感覚はあったのだ。自分は、この世界に生きてていいのかという不安。だから自分がいる現実を放棄して自分がよそ者である世界へ足を伸ばして繰り返し確かめる。自分がどれほど価値のない人間かを。どれほど世界が広く、自分がちっぽけな人間かと。所詮人間は、ゼロだ。


「あーさんさぁ、なんでそんなこと言うの?」

「あん?」

「どこかに行きたいって。よく言ってるし、すぐどっか行っちゃうし」

「…………」

「篠崎のこと、ちゃんと考えてやってって」


 どうしてそこに涼子が出てくるんだ、なんて言葉は言えなかった。代わりに口から出てきたのは白煙で、結局沈黙は言葉を肯定した。あれから帰りに一緒に帰るのは変わっていないし、たまに一緒に食事をしたりする。何も変わっていない。それ以上に進んだわけでもなければ疎遠になったわけでもない。そこに留まっている。まだ綾肴は彼女が好きだと認めていないし、その感覚を探っている。この形以外に存在するイメージがつかめないから、変化できない。
 答えないから中原からも返事は返ってこず、二人して空を見上げながら紫煙を吐き出すしかできなくなった。中原を見ても何を思っているか分からない。どこまで見透かされているのかも分からないから、怖い。
 黙っていると、隣の棟の屋上にいるらしい女生徒の声が風に乗って聞こえてきた。思考を放棄した脳が、その言葉を無意識に拾っていた。


「酒井君と付き合ってるってほんと?」

「え?うん」


 その会話の中に自分の名前が含まれていることに驚いたけれど、それ以上の感想はなかった。涼子がいたのか、くらいしか思わずに銜えた煙草の長くなった先端を眺めやる。紙と灰の間が赤く灯って、紫煙を生産していく。風に浚われて長くなりすぎた灰が飛ばされた。気にしていないのに、銜えたままのタバコをぼんやり見やりながら耳を傾けてしまった。


「いつから付き合ってるの?」

「中学のときかな?曖昧だったからよくわかんない」

「どこまでいってるの?もうキスした!?」

「えっ!?」


 女って下世話な話題が多いよな、となんだか一瞬にして冷めた。短くなった煙草を吐き出して上履きで踏み潰し、それを二人の間のペンキ缶に放り込む。逆隣におきっぱなしのケースからもう一本取り出して火を点けながら、涼子がしたよ!と叫ぶような声を上げた。そんなに声を荒げなくても、と思うけれどきっと彼女も話題の下世話さに我慢ならなかったのだろう。


「あーさんがそんな奥手じゃないのは知ってるけど、舌いれた?」

「……お前もかよ」

「そんなお年頃だもーん」


 かしましいのは女だけかと思っていたら、隣にもいた。それこそ関係ないだろうがと思うけれどちらりと睨みつけた顔には好奇心ではなく社交辞令のような色が窺える。おちゃらけたような言い方をしているが、口元に運んだ煙草から立ち上る紫煙を眺めている瞳は笑っていない。


「してねぇよ」

「あれ、奥手。一応訊くけどセックスした?」

「…………」


 短く答えてやれば、少しトーンの上がった声でそんなに奥手だったっけ、と聞かれた。
 別に奥手だから彼女に手を出していないわけじゃあない。拒絶されたわけでもない。ただ手を出す気にならないだけだ。憲吾と一緒に雑誌モデルの誰が可愛いだの言い合うこともあるし、もともと誰もいない家で父親のアダルトビデオはそれこそ見放題だった。決して奥手ではないし興味がないわけでもないけれど、涼子を相手にしたときだけは性的欲求は不思議とない。それはただ、この関係を壊したくないことの恐怖であるとうすうす気づいているけれど、まだ気づいていないふり。自分の感情に、こうしてまた蓋をする。


「酒井。傷つけんなよ」

「……善処する」


 一段下がった中原の声に、はっきりと答えることができなかった。曖昧な言葉は、そのまま綾肴の心中。どうしたら彼女が傷つくのか、どうしたら傷つけなくて済むのか、何も分からない。ただ少なくともこの場所は傷つけなくてすむとは、分かっていた。
 キャピキャピした女の声も中原と同様肉体関係にまで言及していたけれど、涼子の言葉は予鈴にかき消されて聞こえなかった。










 高校に入って週に一回部活がある。涼子は中学のときと同様バレー部に入ったし憲吾も変わらずにサッカー部だった。そうして綾肴は料理部に入った。もともと料理は好きだし、お菓子を作って帰ると燈が喜んでくれた。別に女子が多いからという理由では全くなかったけれど、料理部に入ると言ったら憲吾に文句を言われ涼子に妙な目で見られた。週一だからほかは大抵早く帰れるから燈と遊んでやれるのが一番の理由だったのかもしれないし、自分の時間を束縛されるのは好きじゃあなかった。


「酒井くん、一緒に買い物行かない?」


 明日の部活、クッキー焼くんだって。そう声をかけてきたのはクラスが一緒の部活仲間だった。染めているあからさまな茶髪とたくさんのアクセサリーは人々の注目を集め、誰とでも分け隔てなく接するので男女問わず人気がある。確か運動部にも所属しているはずだ。越後沙織と言っただろうか彼女はクラスが同じこともありよく綾肴と一緒に調理している。


「いいけど。越後、家どこ?」

「この辺で買っていけばいいよ。ついでに荷物をチャリの酒井君が持って帰ればいいと思うんだ」

「明日持ってくんのも俺かよ」


 放課後は涼子も憲吾も部活だと言っていたから一人で帰ろうと思っていたところだった。彼女の強気な言い方に苦笑して、了承した。一緒にいた修平がデートだ、俺も行くと言い出したけれどなぜか越後が嫌がった。彼女が関係ないからとばっさりと切り捨てて、二人で近所のスーパーに行くことになった。既に授業も終わっているため、綾肴は机の上に広げていたポッキーを修平の分も片付けて鞄を持ち上げた。
 学校から家は自転車で二十分程度だけれど、相変わらず綾肴は一人では倍以上の時間をかける。高校に入ってからは特に朝は涼子が一緒だから遅刻は減ったので帰りはやはり二十分程度で帰り着く。たまにこの近さが嫌になることもあるけれど、大抵の場合は得られる自由な時間が嬉しい。中学時代の話を越後としながら近くのスーパーまで行くと、時間がそうなのかやはり主婦が多かった。


「酒井くん、中に何か入れる?」

「チョコかドライフルーツだな。やっぱ小さい子ってそういうの好きだろ」

「酒井くん兄弟いるの?」


 籠を持って目的の棚を探しながら、何を買おうかと話し合う。どうしてもお菓子を作る活動は燈が食べたいものを作ってやろうと言う気になる。綾肴にとっては妹と変わらないし、実の両親よりも愛着がある。だからどうしても小学生の女の子が食べたいものを考える。事情を知らない方からしたら兄弟でもいるのかと思うのが当然だろう。けれどこの関係を詳しく説明するのも億劫なので、首を軽く振って材料を手に取ることで会話を打ち切った。手にしたのは自分の趣味でラムレーズンと、燈のためにチョコチップ。


「どっちにすっかな」

「私、紅茶にしようかな。ねぇ、どう思う?」

「美味そう。アールグレイの茶葉だろ」

「うん。緑茶とか美味しいかな」

「いやいや、それ不味いって」


 どちらにしようかなと悩んで、結局両方を足元に置いた籠に放り込んだ。ラムレーズンは家で何かつくればいいかと軽く考え、チョコチップは少し多めに入れた。あとの粉やら砂糖やらは学校で用意してくれるだろうと予想している。基本的な材料は学校で準備してくれてあとで集金なので高いのか安いのか、だ。どっちみち親が置いていく食費から出すから関係ないのだが。
 籠には越後の茶葉と綾肴のチョコチップとラムレーズン。あとなぜか銀のスプレーが入っている。他に買うものはないだろうと籠を持ち上げようとしたら、同時に手を伸ばしてきた越後の手と持ち手のところでぶつかった。


「わり」

「ご、ごめん!」


 大げさに手を引っ込めた彼女に首をかしげて彼女を見ると、触れ合った手を胸に抱いて恥ずかしそうに顔を逸らしている。普段部活では普通の反応なのにこんなに大げさな反応を見せられるのは初めてで、驚いた。教室ではたまに女子にそういう反応をされることはあるが、それは経験されているのだと思っていたが。


「どした?」

「……べ、別に……」

「おかしいだろ、お前」

「おかしくない!帰ろ!!」


 なぜか知らないけれど顔の赤い越後が声を荒げて籠を持って、一人でさっさとレジに行ってしまった。その後姿を追いかけて、少し怒ったような彼女の顔に首を捻った。クラスの人気者で学年でも抜群で可愛い娘が、女の顔を歪めている。綾肴と涼子が付き合っているのは意外に有名で、匿名の手紙は貰ってもみんなが言い捨てのような雰囲気があった。
 レジで会計を済ませて、小さなビニール袋をお互いに手に持って店の外に出た。初めは一緒に持って帰ってと言っていたのに、渡すつもりはないようだった。駅を使う彼女のために、学校まで自転車を引いて戻る道はオレンジ色になっていた。


「……あの、酒井くん」

「ん?」

「酒井くんて、篠崎さんと付き合ってるんだよね?」

「まぁ、うん」


 学校が見えてきた場所まで黙っていた越後が、不意に小さな声で呟いた。この確認をされて、やっと告白されるのかと思い当たった。未だに涼子に対する感情の名前を決めかねている綾肴は、彼女の言葉も素直に受け入れられそうだった。聞こえてくるのは校庭で部活をしている声と、学校の脇を通っている電車の音。すれ違う人は運動部のランニングをしている奴らくらいだった。
 越後が足を止めるから、綾肴も数歩進んで足を止める。振り返った彼女の顔は逆光で見えなかった。何となくこの光景にデジャヴを覚える。


「好きです」

「……で?」

「一回だけ、キスして」


 たったそれだけでいいから、という彼女がどんな表情をしているか分からない。けれど震えた声でお願い、と続いた言葉には図らずともきゅんとした。綺麗なものは好きだし、彼女が彼女だったら自慢になるなとつまらない好奇心が疼きだす。誰に見せびらかすつもりではないけれど、それもそれでいいと罪悪感なんてなかった。


「一回だけでいいのか?」


 自転車を止めて、彼女の肩を掴んだ。じっとしている彼女の顔に唇を近づける。貞操観念なんてとうの昔に崩壊している。罪悪感なんてはなから存在しない。好奇心からではなく、興味がない。愛情だのなんだの、やはり理解できない。ただのステイタス。だから、躊躇いもせずに唇に触れた。目を細めて改めて彼女の顔を見ると可愛い顔をしている。憲吾が入学当初から騒ぐ理由が分かるなと思いながら、そのステイタスを獲るために自然に唇を割って舌を押し込んだ。
 ここが道端だと分かっていたけれど、誰もいない裏道みたいなものだから気にしない。見ているのはグラウンドの生徒だけだろうから見られても構わなかった。


「綾肴……?」


 電車が通り過ぎた轟音の後、妙に大きく聞こえた声は涼子のもの。俗に言う浮気で、ばれたらもっと焦るものだと思っていたけれど思ったよりも冷静だった。自然に越後を離して振り返ると、体育着姿の涼子が立っている。逆光で顔は見えない。あぁ、あの時と逆だと自然に思えた。越後が息を呑んでこちらを見てくるけれど、見られてどうなるものではない。弁解も浮かんでこないので黙っていれば、彼女の目から涙が零れたような気配があった。
 言い訳なんかするつもりはなかった。言葉が出てこなかったのもそうだし、何か弁解する必要も感じられなかった。だからいっそ責めてくれればよかったのに、涼子は踵を返して綾肴の前から姿を消した。けれどそれを追うために足は動いてくれなかった。そうして、綾肴も踵を返す。


「帰ろうぜ」

「え、でも……」

「暗くなっちまうぞ」


 綾肴がした行動は、越後を駅に促すことだった。涼子は泣いているだろうか、傷つけたのだろうか。その理由がどうにも理解できなくて、かんがえうことを放棄した。駅に着くまでは黙っていた越後が別れ際に付き合ってくれと言ってきたから、それもありかと了承した。きっともう、彼女とは終わりだ。
 家に帰って燈にマフィンを作ってやったときに、どうしたのと訊かれて答えを綾肴は持っていなかった。










 綾肴が越後と付き合いだしたという噂が広まったのは、梅雨に入る前だった。明るい彼女は食事も一緒にとろうと言ってきたし、憲吾と一緒のときでも臆すことなくくっついてきた。始めに付き合っているのかと冗談交じりに訊いたのが憲吾だったからかもしれない。涼子とはあれから口を利いていないし、一緒に帰ってもいない。だからこそ、終わったのだと思っていた。
 夏休みには今度は西のほうに足を伸ばし、九州を一周した。土産を買ってこなかったことや勝手に行ったことを越後に怒られたけれど、その間にも涼子には一言も言っていない。
 涼子が教室に顔を出したのは、文化祭も終わった九月の末だった。金曜日の放課後はお互いに部活のない日だけれど、あれから一緒に帰ることもなくなっていた。だから少し驚いた。


「綾肴、ちょっと付き合えよ」

「お前部活は?」


 顔を出したのは涼子だったけれど、声をかけてきたのは憲吾だった。少し柄の悪い言い方に思わず関係のないことを突っ込んだけれど、無視して屋上に連れて行かれた。しかも、いつもの隠れ家である3号棟の屋上。鍵は綾肴と中原しか持っていなかったはずだから、もしかしたら借りたのだろうか。
 誰もいない屋上に来て、弱くなった日差しを痛感する。外では少し寒いだろうか。涼子は黙り続け、彼女が話すのかと思ったら憲吾が口火を切った。


「お前、浮気したこと悪いとか思ってねぇの?」

「…………」

「ま、お前が本心話さないのいつものことだからいいけどさ。篠崎のこと、考えてやれよ」


 始めの質問に答えないで煙草に火を点けると、憲吾は少しイラついたような声で吐き出した。部活に行くと言い捨てて踵を返すから、一体何をしに来たんだと言おうかと思ったけれどどうみても涼子のために場を作ったのだろう。ならば涼子の恨み言を聞いて本当の終わりになるのだろうか。だったら、と綾肴はその場に腰を下ろした。涼子にも座るように軽く手を下げると素直に腰を下ろした。今まで隣に並んでいたのに、今は妙に遠い。この距離が奇妙な違和感を生むが、これも自業自得だ。本当はもう、分かっている。


「綾肴」


 意を決したような声音で名前を呼ばれるけれど、顔を上げられずに床のタイルを見ていた。ポケットから煙草を取り出しても生憎ライターがない。いつものように紫煙に逃げることもできず、言葉は胸のうちを燻っていく。妙な沈黙が少しして、涼子がゆっくりと口を開く。その声は震えていた。


「……もう、終わりなのかな……」


 私たち、おしまいなのかな。泣きはしないものの、今にも泣き出しそうな顔を涼子は俯かせた。髪が表情を隠して窺うことはできないけれど、きっと歯を食いしばって泣くまいとしているのだろう。そんな彼女だから、きっと隣にいるのがひどく楽だった。好きだとか嫌いだとか、愛しているだとか。そういうことはすべてとっぱらって、隣にいるのが自然だった。涼子の気持ちなんて無視して、自分がよければそれでいい自分は、最低だ。
 その最低な自分を見ない振りして、その結果がこれだとしたら最低にもほどがある。結局、こみ上げてきたのは苦い笑い。


「終わりにしたくないっつったら?」

「え?」

「やっぱ、お前じゃないとダメみてぇ」


 驚いた顔を上げた涼子の目から、溜まっていた涙が一粒だけ零れた。溢れるかと思ったけれど気丈にもそれだけで留まっている。
 結局こうして、自分のわがままで彼女を傷つけることになるのだろう。それは自分のことだからよく分かっている。その度にこうして、涼子が隣にいるのが心地いいと感じるのだろう。最低と罵られても、それは永遠に変わらないような気がした。


「越後といてもなんか、しっくりこなくて。やっぱお前がいい」

「私は、特別?」

「特別っつーか……お前じゃないと変な感じすんだよ。今回は俺が悪かった、謝るから許せ」

「……いっつも偉そうなんだから、綾肴は」


 今回ばかりは頭を下げると、涼子が泣きそうに歪んだ顔に無理矢理微笑を浮かべた。呆れたような言い方に安堵して、やっと大きく息を吐き出した。やっぱり隣にいるのが心地いいから、重い体を持ち上げて彼女の横に移動する。浚うように指先で顎を持ち上げ、目を細めた。近づけた鼻が彼女の匂いを捕らえて、ひどく安堵する。


「仲直り」


 今までと同じ、浚うような口付けを一つ。ただ唇が触れるだけの口付けを交わして、すぐに離れた。何か言いたそうな顔に泊まりに来るかと訊けば、真っ赤な顔で辞退された。安心したら煙草が欲しくなって火を持ってないかとあるわけがないと分かっているのに訊いた。高校生になった涼子は長かった髪を切った。その髪も少し長くなったと、しばらく見なかった間のことを思った。
 暗くなるから帰ろうかと言い出したのかどっちだったか。たぶんどちらも何も言わずに暗黙の了解だったのだろう。立ち上がって、不意に気配を感じて振り返ると中原がいた。


「何だよ、お前もしかしてずっと聞いてた?」

「酒井」


 低い声は彼が真剣な証拠。不意に苗字を呼ばれ、次の瞬間には固い拳が飛んできた。避けようと思えば避けることは可能だった。けれどどうしてかそれを避けてはいけない気がして、顔面に食らった。歯を食いしばったけれど切ったのかじんわりと血の味がしばらくしてからしてくる。殴られた瞬間に顔は右に跳び、その刹那に感じたのは衝動。しばらく痛みはなかったものの涼子が悲鳴を上げて駆け寄ってきてようやく痺れが来た。


「俺、忠告したよな」

「まぁな」

「歯の一本でも貰いたい気分だ」

「ざけんな」


 歯は折れていないが、血は出ている。口内に溜まる不快な鉄分を唾に交えてぷっと吐き出し、拳を握る。油断しきっているところに一発、腹に向かって叩き込んだ。予想はしていたのだろうかろうじてガードされたが、そんな不十分なものでは衝撃は消えない。たたらを踏んだからよしとして、綾肴は踵を返した。


「涼子。帰ろうぜ」

「でも……」

「ほっとけ、こんな奴」

「ちょっ、綾肴!」


 お相子だ、と校舎に戻ろうとすると、後ろから涼子の非難が飛んでくる。これでやっと普通にもどれたと思い、安心する。絶対に後ろから追いついてくると言う自身があって、一人で先に階段から下りた。しばらくするとパタパタと上から足早に降りてくる音が聞こえて、隣で止まる。そのころになってようやく殴られた頬がずきずきと痛んだ。
 それから何度も同じような浮気を繰り返し、そのたびにしっくりこない感覚を味わい涼子と一悶着あり、結局もとの鞘に収まる。それでもまだ、愛の形が分からない。





−続−

本当はあーちゃんと中原君をガチバトルさせたかった