いつの間にか一人で過ごす時間が増えた。二年の冬が終わり、涼子は大学進学を決めた。それからは勉強主体の生活に変わり、学校と塾の往復になった。部活がない綾肴とは合う時間も減り、連絡を取る回数も減った。春休みが終われば会えると分かっているから涼子からも連絡をしなかった。なんとなく今まで一緒にいられたからこれからも一緒にいられるんじゃあないかと思ったのが、いけなかったのかもしれない。
 春休みが終わり、桜の花がひらひらと散る中を一人で登校した。今までも朝は綾肴が弱いから会えないことも多かったから特に気にしないでいた。学校に行って張られたクラス替え表をみたら、涼子は三組だった。次いで綾肴の名前を探したけれど先に中原の名前を同じ三組に見つける。綾肴の名前は、八組だった。


「あれ、あーさんと離れちゃったね」

「中原君。今年もよろしくね」


 残念で、なんだか胸の中にぽっかりと明いた喪失感で表から目を逸らせなかった。けれどここでは邪魔だからと無理矢理視線を引き剥がして教室に向かう。三組の涼子は一階の教室だけれど八組の綾肴は二階の教室を使うから、それだけでも酷く距離を感じた。それでもまだ彼を信じられる。信じていたかった。
 クラスが別れても綾肴の行動は分かる。昼休みに涼子はたまに屋上へ向かった。そこでは大抵、綾肴たちが集まって昼食をとっている。
 それは三年になって一ヶ月も過ぎたよく晴れた日のことだった。


「涼子、これやる」

「何?」

「マフィン。昨日焼いた」

「綾肴が?」

「他に誰がいんだよ」


 午後の授業が自習だと言ったら、綾肴が自分もサボると言い出して久しぶりに屋上で二人きりになった。二人きりになったのは一体いつぶりだろうと考えて涼子の唇からため息が零れる。床に寝転んで煙草を吸いながらうとうとしていた綾肴が、ふと身体を起こして弁当袋の中から何かを取り出したと思ったらそれはラッピングされた包みだった。中身は燈のために作ったマフィンだという。さっそく出してその見目の良さに素直に感心した。
 今までコンビニでお昼を買っていた綾肴は、今年になって弁当を持参するようになった。周りが本格的に勉強を始めたのに今までと何も変わらずに屋上で昼寝して時間を潰している。


「あ、美味しい」

「だろ。自信作」


 一口食べて広がった甘いチョコレートの味はきっと子供向け。年下の幼馴染のために作ったのなら丁度いいけれど、涼子には少し甘いくらいだろうか。けれどじんわりとした味にほっとした。
 綾肴は何も話さない。今だって美味しいと言ったらいきなり身体を起こしていつもよりも緩んだ顔で何が隠し味がどうとかオーブンの温度がどうとかを話し出して。二人きりのときに綾肴がこんな顔で笑うのを初めて見た。修平や憲吾と一緒のときはこんな顔で笑うのだろうか。どうして彼女なのに、何も言ってくれないのか。綾肴の心が、分からない。


「涼子?」

「あっ……綾肴」

「あん?」


 名前を呼ばれて、唇を掠め取られる。浚うような口付けは綾肴の癖。いつもは煙草の味がする唇が涼子のそれに触れてからぺろりと己のを舐め、チョコレートの甘さに顔を顰めた。それで自分の唇にチョコがついていたことに気づく。彼はきっと、何も話してくれない。そんな気がした。でも訊かないと気がすまなくて。


「綾肴は進学、どうするの?」

「あん?まだ考えてねぇよ」

「考えてないって……もう五月なのに?」


 ほら、やっぱり。曖昧に口元を歪ませて、綾肴はしらっと空を見上げる。その空は白々しいほど青い。今まで一緒にいて知っているけれど、綾肴は聡い。常に人よりも先を読んでいろいろ考えている。それなのに、考えてないはずがない。だから、綾肴の言葉はきっと虚構だ。
 何でも知っているなんておこがましいことは言わないけれど、他の人たちよりもずいぶん近いところにいるとは思っていた。でも所詮涼子も同じで、綾肴にとって他人だった。悔しいなんて気はしなかった。ただ胸が、空っぽになるような気がして。


「なんで……なにも言ってくれないの?」

「何も?」

「何か決めてるんじゃない、の?」

「決めてねぇな」


 そうやって綾肴はすべてを誤魔化す。誤魔化して誤魔化して、涼子に何も言わない。続ける言葉を見つけられずに無意識に唇を噛んで俯いているのに綾肴から何の言葉もない。しばらく拗ねたように黙っていたけれどあまりにも反応がなさすぎて顔を上げたら、綾肴は眠っていた。
 少し疲れている寝顔を見て、涼子はそっと綾肴の顎に指を伸ばす。いつの間に髭が蓄えられているのか、涼子は知らない。


「嘘つき」


 そう呟いてみても、綾肴はきっと起きないだろう。起きていたとしても聞かなかったふりをする。綾肴はそういう男だ。結局、何年一緒にいても綾肴は何も話してくれない。睦まじい恋人同士になることができず、どこか冷めて一歩下がっているような気がして。だから最後の仕返しに、涼子は初めて綾肴の唇を浚った。
 それから涼子は、必要がなければ屋上に顔を出すのをやめた。せめて受験が終わったら元に戻れると、そう頑なに信じた。
 けれど、どうしても気になって憲吾に訊いて見たこともあった。中学に上がる前からずっと友達だった彼ならば綾肴も何か話しているんじゃあないかと思った。けれど、結局彼も知らないままで。


「綾肴はさ、結果出てからしか言わないから。待ってりゃ言うって」


 そう言って憲吾は笑ってけれど、涼子は笑えなかった。綾肴がそんな人間だなんて知っていたはずなのに、ふらふらする綾肴に心をかき乱される。勉強が手につかなくなりそうで、夏休みに一度も連絡をしないまま涼子は一日の大半を塾の自習室で過ごした。たった一度綾肴から連絡があったけれど、予備校だと断った。
 綾肴のせいだと人のせいにして、勉強に逃げた。綾肴から逃げた先に待っていたものは、自滅しかないはずだった。










 将来どうするのという問いを幾度か自分の中で反駁し、綾肴が選んだのは専門学校に行くことだった。春休みのうちに資料を貰い、バイトを決めた。歳を誤魔化してのバイトだけれど、ばれたところで笑って許してくれそうな店長だった。そもそも紹介してくれたのが同じビリヤードバーの常連だから問題にもならない。
 今年の春休みは海外に旅行しようと思っていたから、ついでにフランスに旅行した。言葉は通じないけれど、それなりに聞けば耳がなれてある程度の意味は理解できた。一週間で観光を終えて、家に帰ってきてからは今回も近場のバーで遊んだ。


「綾肴、ちょっと」


 進路希望は本人の希望であって親の希望じゃあないはずなのに、どうしてか親の記入欄がある。そのためにいつものようにまず未記入で夜テーブルの上に出してバイトに行った。帰ってくる頃は親は眠っているから起こさないように部屋に行けばいいと思っていたけれど、四時過ぎに帰宅してリビングを通ると両親が揃っていた。
 次官が時間だから何か言われるかと思ったけれど、静かな声でただ名前を呼ばれた。その声に怒気がないから、一度キッチンで水を飲んでから彼らの向かいに座った。怒気がないと言っても、十年以上彼らと感情の篭った声で会話をしたことがない。


「貴方はどう思ってるの?」


 口火を切ったのは母だった。しばらく見ない間に母は歳をとった。なんだか急にそう思えた。声に力がないのが原因かもしれない。問いかけた言葉は、息のようだった。隣の父を見ると、彼は目を閉じている。つい先日まで一人息子の教育になんて興味を示さなかった両親の豹変振りにいささか驚きはした。
 そう言えば一月ほど前に涼子に同じ質問をされたことを思い出した。当然大学に行くと思っている。けれど綾肴にそのつもりはない。たとえ嘘といわれても、彼女にも誰にも何も言う気はなかった。驚かせるだとかそうではなくて、もし考えが翻ったときに何かを言われるのが酷く鬱陶しいから。だから今もあまり発言したくない。


「俺は……」

「帰りが遅かったな」

「貴方!」


 突如口を挟んできた父親に思わず綾肴の目が鋭く歪められる。今更何を言うんだという思いもそうだけれど、威圧的なその言葉が気に触ったのかもしれない。すぐに母が口を出した男を諌めたけれど、彼から不遜な態度が改められるわけではなかった。結局綾肴がしたことは、視線を逸らせて己の意見を述べることだった。


「俺は調理師の資格を取ろうと思ってる。そのための資料も集めた」

「そう」


 はっきりと誰かに伝えたのは初めてだったけれど、それは思いのほかすんなり通った。母はたった一言頷いただけで立ち上がって二階に上がってしまった。納得してくれたのなら構わないし、学校に行くまでにはもう時間もあまりないから睡眠を優先したいという理由で綾肴も席を立った。
 布団に潜り込んでも八時に起きて学校に行くには三時間ほどしか眠れない。それを考えたら眠るのが億劫になって、やめて教科書を引っ張り出した。推薦ではある程度の成績が必要で、学力はあるけれど生活態度が最悪なので少し不安ではある。ただ担任がいい推薦書を書いてくれるだろうとは期待している。だから、せめてテストではそこそこの点数を取っておいてやろうかと思うし数学は嫌いじゃあない。パズル代わりに丁度いいから手遊びだ。


「そだ、弁当」


 料理にはまったきっかけは燈だった。作ってとせがまれたお菓子を作ったら結構好評で、もともと料理が好きだったから自分で作り始めた弁当も苦ではない。どうせならこだわった弁当でも作るかと思ったのは気まぐれだけれど、まだ時間は三時間以上ある。今日は下ごしらえも何もしてないからついでに、と思ってまずシャワーを浴びてから弁当作りを始めた。たまには、涼子にも作ってやろうか。
 にんじんを刻みながら、自分の悪いくせについて考える。今更言ってもしょうがないけれど見栄っ張りで格好つけたがりで、何よりもみっともないことが嫌い。第一に見た目を気にして、今まで一体誰に心を開いてきただろう。自分の両親にすら本心を伝えたことがないのに、他人なんて余計にそうだけれど。だからきっと、紫煙に溶かして本当の言葉は立ち消える。


「いてっ」


 その荒んだ思考自体が原罪であるような気がしたのが原因だったのかたが気を逸らしたのがいけなかったのか、普段ならまったくしないけれど包丁が滑って手を切った。小さく呻いてすぐに指を銜えたらじんわりと鉄の味が口内に染み渡る。生きているとは思ったけれど、その理由は酷く曖昧だ。
 ふわふわしている。綾肴はいつだってふわふわと宙を歩くように生きてきた。その都度一人で悩んで答えを出したけれど、それでも後から思い出したらそのとき出した結論は子供の独りよがりで。それがとても後味が悪い。


「花見……」


 ついでなら、花見をしようか。そう思って少し多めに弁当におかずをつめた。天気がいいから屋上で、みんなで集まって食べるのがいい。
 けれど最近涼子が来ないことが気にかかる。もともと豆に連絡する方じゃあないし、クラスが分かれてしまってから会うことも極端に減った。でも昼には屋上に来たのに、いつの間にか彼女は教室で友達と参考書を開きながら昼食をとっていると中原に聞いた。それならそれで一言言ってくれればいいものを、と思うのは綾肴の都合だろうか。
 そんな詮のないことを考えながら弁当を作り終わって、珍しく遅刻せずに教室に行くと誰よりもまず担任に驚かれた。










 夏休み明けには専門学校の合格通知が送られてきた。綾肴はヨーロッパ一周のために一月家を空けていて受け取ったのは母親だったようだ。けれど消印から半月経って見つけたそれは封も開けられずに机の上においてあった。帰宅してそれを開けて中を確認して、目を覚ましたのは昼近くだった。いつもならば家に誰もいないか燈がいるけれど、顔を洗いにリビングに下りていくと父と母が揃っていた。


「綾肴、ちょっと座ってくれる」

「……何」


 神妙な声は休み前と変わらない。今日はこれから久しぶりに涼子に連絡して本当のことを話してやろうかと思っていたけれど、どうせすぐに新学期も始まるからいいやとソファに腰を下ろした。彼らがこんな平日にいるのはおかしいから旅行に行っている間に時間間隔がおかしくなったのかと思ってカレンダーを確認したけれど今日が何日かわらからない。


「私たちの勤めている会社が倒産したわ」


 そう母親が切り出しても、ただそうかとしか思わなかった。だからこの間から妙な雰囲気だったかとか、こんな時間にいるんだとか。ただそれは夏休み前の話で、丁度綾肴と進路の話をした頃のだったようだ。母親は既に再就職先が決まっているという。だから学費もなにも心配しないで、と言った。その隣の父の話がでないということはまだ雇用は決まっていないのだろう。
 バイトを始めてからというもの、使い道もないので綾肴は旅行も普段遊ぶ金もバイト代で賄っている。今回のヨーロッパ旅行もそれで、貯金は一気に減ったけれどまったく気にしていない。ただ、高校を卒業したら家を出ようかと思っている。そのための資金も今からバイトして十分にたまる。


「あっそ」


 だから綾肴の返事は酷く簡単だった。肉親に対してもこのくらいの情しか湧かないとは、自分に吃驚だ。恐らくそれまでの親子関係が原因だろうけれど、お互いに特に何の感情もない。ただ親は育てることが義務だからやっているだけ、子供は養われることでその義務を果たさせているのかもしれない。否、そういうとひどく傲慢か。
 この反応も母は予想していたのかそれ以上は何も言おうとしなかった。元々自分のことは勝手にやっているから何が変わることはない。席を立つ際にちらりと父を見たら、なぜか酷く睨まれた。何か言いたそうな目をしているくせに口を開く様子はなく、結局言葉を交わさずに自室に戻ろうと階段に足を掛ける。そうしてふと、後ろを振り返った。疲れたような父は俯き、母は少しの倦怠感を滲ませている。家の空気は淀んでいる。


「専門決まった」


 それだけ言って階段を上がる。後ろから母の短いおめでとうの言葉が聞こえた。やはり父の声は聞こえず、最後に言葉を交わしたのはいつだろうと考えた。物心着くころには毎日顔をあわせることもなかった気がするから、他愛ない会話なんて恐らくしたことがないのだろう。そんな関係でありながら親子である事実がなんだか無性に面白かった。
 なにをするにも億劫になって一眠りして、夕方暑さが和らいだ頃に久しぶりに涼子に電話を掛けた。両親が家にいる時間に電話を掛けたので妙に声が小さくなった。家に電話したら相手の母親が出て、涼子は予備校に行っていると言われた。彼女の母とは面識もあるので帰宅時間を尋ねたけれど、深夜になると言われて。それならもう明日でいいかと、簡単に諦めた。そういうところがきっと冷めていると言われる。


「久しぶりに夕食、一緒にとれるわ」

「俺、今日バイトあるから。もう家出るし」

「あら、そうなの。残念だけど、これからは今までよりも時間があるわ」


 五時からバイトだから、そろそろ家を出なければならない。その前に涼子に電話したけれど空振りだったから少し早いけれど家を出ようとしていたところだった。珍しく台所にいた母は顔を覗かせて笑顔を見せる。彼女の笑顔を見たのはいつぶりだったろうか、あまり記憶にない。仕事が変わり少し時間に余裕ができるそうで、帰りも今までより早くなるし日曜日も休みらしい。それで家計は大丈夫かと一瞬気になったがそれは本人たちが決めることだと自己完結して言葉には出さなかった。ただ一緒に食卓を囲むことに対する違和感は、確かにある。
 家を出て電車に乗って、予想通り三十分も早く着いてしまった。いつもの時間まで待っていようかと思ったけれど熱くて、煙草を口に銜えた時点で諦めて火を点けながら薄暗い店内に入った。


「おはようっすー」

「はよっす。早いな」


 既に準備を始めていた歳若い店長は、常よりも早い時間に驚いたように目を細める。煙草を吸いながら理由を話し、エプロンを着けて準備を開始するとなぜだか良かったな、と言われた。その言葉の意味が分からずにそのまま問い返すと帰って来た答えは大人になれば分かる、で。大人のその対応に、少し腹が立った。


「俺、そんなに餓鬼じゃねぇし」

「そう思ってるうちはみんな餓鬼だ。ほら、さっさと準備に励め」

「彼女いないくせにー」

「それがどうしたってんだ、オイ。あ、そういやお前学校の方は?」

「通知来た」


 開けるぞ、と彼は言っていつものように開店時間よりも少し早い時間に店を開けた。五時に開店したとしても客が入ってくるのは早くても七時を回った時間だから、それまではぶっちゃけ暇で綾肴の練習時間や無駄話に費やされる。それは今日も変わらない。シェーカーを振る練習をさせてもらいながら、他愛ない話をする時間が実は好きだ。特に、何を話しても気負うことがないから口に出す言葉は単純明快。


「八月も残り三日だけどよ、お前宿題大丈夫か?」

「あ、三日なんだ。三年は宿題ねぇもん」

「あぁ、受験生か。教室すげぇ暗いだろ」

「すっげ暗い。つか友達も彼女も暗い」

「お前はこんなにふらふらしてんのにな。おい、振り幅変わってるぞ」


 話す方に夢中になって手が疎かになることは振り始めた頃は多かったけれど、最近では滅多に注意されることはなかった。けれど今日粗が出たのは少し気にしていたのだろうか、彼女とのことを。環境が変わっていく中で、燈にすら会っていないことに気づく。あの子も今何をしているだろう。自分は今何をしているだろう。
 シェーカーからグラスに空けて、オーナー兼師匠に差し出してみてもらう。この瞬間がいつも緊張した。彼の微細な動きを一つでも見逃すかというほど顔を凝視しているけれど、彼はいつも同じように眉を顰める。それは今日も変わらない。舐めただけのグラスを置くのも同じ。


「氷が粗い。何だ、悩み事か?」

「ちょっと調子悪いだけじゃん」

「話してみろって、聞くだけだけど。あ、彼女のこととか」

「デリカシーがねぇ。そだ、女紹介してよ。彼女が予備校通いで構ってくれねぇから」


 きっと涼子に対して少しずつたまるイラつきは会えないからの寂しさじゃあなくて、肉体的にたまっているものが原因だと思っていた。セックス不足、なんて言えば自分は納得できた。ただそれだけではないような気はしていたけれど、自分すらも誤魔化せると思って。そうして今まで生きてきたのだから、今回だっていけると思った。だから、彼に頼んで女を紹介してもらおうと思った。そうすればこの気持ちもどこかに消えてくれると、そう思ったから。


「浮気は関心しねぇぞ」

「毎日違う女連れてる人に言われたくねぇな」

「俺はどれとも付き合ってねーもん。いいから言ってみろって」

「何もねぇ。いいから次、なに作んの」


 誰にもいえない言葉がきっと自分の中にある。けれどその言葉が何なのかなんて自分だって分からない。形にしなければそのままでいられると知っているから、いつだって自己完結で終わってきた。きっと今回のこともそうなるのだろう。それがどんな結果を生もうとも、綾肴の性格は変わらない。
 新学期になっても涼子は予備校だ勉強だと綾肴を避け続けた。けれどそれも受験が終わって時間が解決してくれるだろうと深く考えなかった。適当に友達と馬鹿やってカクテルを作って、そうして一人だけ同じ生活を続けて春を迎えようとしていた。










 学校が休みになったのが、二月。休みになった途端に綾肴は旅行に出かけた。友達がみんな受験している間にアメリカを一周してきて、帰って来たのは二月の終わりだった。小春日和が続いていたと思ったのに急に雪が降ったその日、綾肴は涼子に電話を掛けた。そろそろ受験が終わったかと思って掛けたら、偶然にも明日が合格発表だといわれたから午後に約束した。
 場所は二人でよく時間を潰したお互いの家の間にある小さな公園で、先に着いた綾肴は白い息を吐き出しながら公園内をぶらぶらしていた。せっかく梅の花が咲いているのに枝に雪が積もっているのが残念なような、幸運のような。足元は水はけがいいのか湿っている程度で済んでいる。


「綾肴!」

「お、久しぶり」


 公園を一周したところで、制服にコートを羽織った涼子を見つけた。あまりにも必死な声で呼ぶから驚いたけれど、軽く手を上げればなぜか酷く泣きそうな顔をした。剥き出しにされた赤い膝を思わず見つめてしまうと、そこが動いて近づいてくる。涼子が近づいてきていることにその後に気づいて、綾肴も数歩近づいた。お互いの間に三歩を残して、止まる。この間まではきっと詰まった距離が、なんでか詰めることができなかった。


「大学、受かった」

「おめでと。俺も、春から調理学校」

「そう、なんだ……」


 涼子が合格通知を見せてくれたから、ポケットに手を突っ込んだまま答えると彼女は小さく呟いただけで手を下ろしてしまった。彼女の逃がした視線の先が梅の枝の先で止まる。唇が小さくもう春か、と紡いだのを見たけれど切なく聞こえたその意味を問うこともできず、結局黙って煙草を口に銜えた。こんなに気まずくなるなんて思ってもいなかった。火を点けて紫煙を吐き出し、そうして自分から三歩分の距離を縮めた。


「涼子」


 彼女の顎を掴んで、そのまま唇を浚うのはいつものこと。これでまた縮むと思われた距離は、けれど三歩分開いたまま。綾肴が縮めようとした距離は涼子によって元に戻った。その意味を、なんとなくだけれど理解したけれどやはり言葉にはならなかった。
 言葉の変わりに口から細く吐き出されたのが紫煙なのはいつもと変わらない。何も、変わっていないはずなのに。


「綾肴……」


 聞こえた声は、震えていなかった。少しだけ乾燥したように掠れた声が、静かに雪に吸い込まれる。告げられる言葉を理解しているだけに彼女を見ることができず、逃げた視線の先には紫煙があった。いつもと同じ、黙って空に昇っていく綾肴の言葉の塊だ。


「綾肴が、遠いよ」


 その言葉の意味を問いただすこともできず、彼女の言葉の続きを待った。けれどなかなか紡がれず、煙草ばかりが短くなっていき、その分長くなった灰が湿った地面に落ちて風に浚われる。フィルターギリギリまで短くなった煙草を落として踏んで、それを待っていたかのように涼子はぐっと手のひらを握り締めた。彼女が持っている合格通知が、クシャッと音を立てた。それに急かされるように口から出たのは、てんで場違いな言葉。自分でも驚くほどに強張った声だった。


「ここにいるじゃねぇか」


 彼女がそんなことを言っているのではないと分かっている。けれど口から出た言葉はどうしようもないのだろうか。お互いに、何が言いたくて何を言えないのか理解しているけれど口から出てくるのは不器用な言葉ばかり。それも酷く遅いから時間ばかりが過ぎていく。
 正反対の時空に吹っ飛ばした言葉に対して返ってきた反応は、緩慢な否定。緩やかに横に振られる頬をいつの間にか短くなっていた髪が打つ。この間まで三編だったのに、いつの間にこんなに短くなったのだろう。


「お前のこと、嫌いじゃねぇんだよ」

「知ってるよ」

「もう、駄目かな」


 それはきっと、最後の望み。言い訳のように口に出した言葉を彼女はまだその真意すら汲み取って分かってくれたのだろう。けれど、それを返してくれるわけじゃあない。裏切り続けたのは綾肴の方で、遅い方だったのにまだ未練たらしく言葉を掛ける。それすら自分ではないようで、また一つ胸に溜まった。


「……ごめん」

「謝るなよ」

「ごめん……」

「謝んな」


 謝るなと言いながら、謝らせている自分がいた。このドロドロと胸の中にある気持ちが彼女に流れ込むことを期待して、最後の口づけをした。今までと変わらない、浚うような口付けを。たった一瞬触れ合った唇は冷たい。何の名残もなく唇は離れる。たった一瞬絡み合った視線もすぐに解けて代わりに梅の花に焦点が合う。同じものを見ているのに、きっと始めから最後まで同じものは見えていなかった。いつまでたっても心は同じ距離を保っていたのかもしれない。今の三歩のように。


「……ごめん」

「謝らないでよ」

「悪い……」

「謝らないでってば」


 きっと歩み寄れなかったのは自分のせいだ。その罪悪感を口からこぼすと、同じ言葉が返ってきた。驚きながらもそのことに謝ると、また同じことを言われて。それでも近づけなかったことに後悔しても、今更遅すぎた。沈黙をかき消してくれる音すらなくて、しばらくして涼子が白い息を吐き出した。


「帰るね」

「あぁ」


 綾肴が吐き出したのも、短い分少ない白い息。絡んだ視線はお互いに乾いていて、これで終わりだというのに泣いて縋ることもなければ掛ける言葉もなかった。ただ何も言わずに同時に視線を切って、乾いた声を先に口にしたのはどっちだっただろう。きっと綾肴のそれは声にならなかった。四文字分の白い息だけが、口から漏れる。


「さよなら」


 またね、ではなくバイバイ、でもない。別れを経験した。閉じた口に煙草をねじ込んで遠くなっていく小さな背中を見送る。
 愛せなかったのは綾肴のせいで、傷つけたのも綾肴のせいで。それなのに最後まで辛い思いをさせてしまった。詰まった胸から吐き出されたのは涙に湿った息ではなく、ただ外気との温度差のために白くなった空気だけで。換わりに吸い込んだ空気はむせ返匂いで溢れていた。





−終−

もっともうちで気難しい子でした。