白いリノリウムの壁が無表情に佇んでいた。人々は忙しなく行き交い、高い靴音やら放送の声やらが混じりあい無機質なBGMを作り上げている。彼らが約束の場に指定されたその建物の歓談室に踏み入れると、静謐な空気の中声を抑えて会話している人が、こちらに視線を向けて更に声を潜めた。


「うっわ……居づらー」

「仕事なんだから文句言わない」


 別にそんな必要はないのに、釣られて声を潜めて言葉を交わしていると、色褪せた着物に身を包んだ女性が、こちらに気付いて立ち上がった。


「不思議屋の方ですね?」


 やややつれた顔で問われ、彼らは無言で頷いた。女性が名を名乗るので、彼らも丁寧に頭を下げる。


「不思議屋の南壱路と申します」

「同じく藤堂氷川です」


 壱路と名乗った青年は優しげな笑みを讃えていて、その隣で憮然と頭を下げた同年代だろう男は興味がなさそうに視線を窓の外に逃がした。はっきり言って怪しげな二人組みに女性はいぶかしむ様に彼らを見やっていたが、考えても仕様がないと言い聞かせるように小さく頷いた。


「まず、娘に会って頂けますか」


 壱路がにこやかに頷き、女性はほっとした様に眼を細めると微かに微笑んでこちらです、と彼らを促した。
 彼女の娘は生まれながらに体が弱かった。何度も入退院を繰り返していたが、とうとう数年前、結核を患った。決して治る事のない不治の病。その真実を娘に伝える事はしなかったが、病は粛々と体を蝕んでいった。


「娘の命は、もう幾日もありません」


 初めに店を訪ねてきた娘の母は、そう言って泣き崩れてしまった。その時も疲れているように見えたが、今日はその時よりやつれて見えたのは気のせいではないだろう。周りの壁と同じ無機質な白い戸の前で女性は足を止めた。


「理穂ちゃん、入るわよ」


 窺うように問うと返事が返ってくる前に戸を開ける。ベッドに座って本を開いていた少女がこちらに気付き、にこりと微笑んだ。笑みを返し、軽く会釈をしてから壱路は勧められた椅子に腰を下ろす。


「はじめまして、理穂ちゃん……でいいのかな」

「三枝理穂です」


 にこりと微笑んだ彼女は、人形のようだった。日に当たった事のない透き通った白い肌と儚い印象を与えてしまう歳の割には落ち着いた表情。壱路は組んだ手を足に乗せて微笑んだ。


「不思議屋店長の南壱路と申します」

「……藤堂氷川っす」

「氷川、客商売」


 不機嫌そうに壁に凭れ掛かり眉を寄せた氷川に壱路が右目の片眼鏡を押し上げた。その視線に氷川は不満そうに「へいへい」と吐き捨てると、邪魔そうに顔に掛かる長い髪を掻きあげる。


「不思議屋さん……?」


 言葉の意味が分からないのか、理穂と言う名の少女は言葉を呟きながら小首を傾げた。説明を求めるように母を見詰め、その視線に壱路は苦笑を漏らす。


「不思議屋というのは、要は何でも屋さんです」

「何でも屋さん?」

「えぇ」


 頷くと理穂は微かに瞳を翳らせた。しかし直ぐににこりと笑む。微かな表情の変化に壱路はちらりと氷川を見やった。彼も気付いたのか目線だけで頷くと、隣に立っている理穂の母に表情一つ変えずに言う。


「すんませんけど、ちょっと出てってください」

「え、でも……」

「こっちも仕事なんで。さっさとしてくれますか」


 有無を言わせぬ声音に彼女は小さく頷くと大人しく部屋を出て行った。彼女がドアを閉める音を聞きながら、壱路はあからさまに息を吐き出して氷川を見やる。


「あんな良い方はないだろう」

「言えっつったのはお前だろが」


 つんと顔を背けて、氷川はポケットから煙草を取り出した。それを取り上げて、壱路は彼らのやり取りを微笑んで見ていた理穂に向き直る。


「おい、返せよ」

「病院は禁煙。さて理穂ちゃん」


 器用に氷川の伸ばしてくる手をかわしながらにこやかに話す壱路に理穂は笑みを隠す事が出来ず、頷いた。


「はい」

「君の願いを叶えよう」


 顔は微笑んでいるはずなのに、彼の声からは全く柔らかさが感じられなかった。どこか責めるように響いた声はこちらに現実を突きつけているようで、怖くなる。瞬間、理穂は理解した。彼らがここに来た理由を。理解したとたん悲しみよりも可笑しさが浮かんできて、理穂は俯いて笑みを漏らした。


「私、もうすぐ死ぬんですね」


 言葉にすると、滑稽に思えた。それを肯定するように氷川はもとから余り変わっていないが表情を失っている。壱路は微笑んだまま足を組み変えるとそっと理穂の頭を撫でた。 


「だから僕たちが来たんだよ。何でも叶えてあげる」

「何でも?」

「何でも。不思議屋に不可能はないんだよ」


 理穂は氷川にちらりと視線を移してから、壱路を見やった。氷川は相変わらず不機嫌に窓の外に視線を泳がせていて、壱路は感情の読めない笑みを浮べている。理穂はにこりと微笑むと、言った。


「病気を治してください」


 その言葉は、そんな事はできないと思って彼女の口をついた。しかし、壱路はにこりと微笑むと頷いた。


「叶えましょう」

「できるんですか?」


 できる訳がないと思っていたから、理穂は驚いた声を上げた。その声に壱路は心外そうに眉を上げる。


「言ったでしょう? 不思議屋には不可能はない、と」


 理穂は頷き、はにかんだ笑みを零した。その笑みに氷川は微かに眼を眇め、壱路は立ち上がると氷川の肩を叩いた。


「それでは、明日また来ます。元気になったら何をしたいか、考えて置いてくださいね」


 にっこりと、変わらない笑みを浮べて壱路は部屋を後にした。その一歩後に氷川が続く。彼らの姿を見送りながら、理穂は自分を抱くように腕を回して強く抱き締めた。










 事務所に帰る車の中には、軽快な音楽が流れている。しかし中に居る人物の空気はそれに反して重い。先に沈黙に耐えられなくなったのは、運転席の氷川だった。


「おい」


 不機嫌の具現のような声で唸ると、隣で眼を閉じていた壱路がゆっくりと瞼を上げる。


「なぁに、氷川」

「俺は反対だからな」

「まだそんな事を言っているの」


 はぁ、と壱路は大きく息を吐き出して片眼鏡を外すと特に汚れてた訳でもないのに丁寧に拭いた。


「薬は確かあった筈だな。でも追加注文しておいたほうが良いだろうな」

「そんな事して何になんだよ」


 苛付きを交えた声音が静かに響き、壱路の顔から笑みが消える。


「どうせ死ぬんだろ。だったら余計な手ぇ出さなくたっていいだろ」

「……氷川、意見は聞こう。だが異論は聞かないといった筈だよ」


 その声には、普段の彼からは想像も出来ないような冷たさが宿っていた。全てを信頼してない、そんな声。氷川は小さく舌打ちを漏らすと口を噤んだ。壱路は片眼鏡をかけ直すとにこりと微笑む。


「氷川は素直なら可愛いのに」

「気持ち悪ぃ事、言ってんな」


 空気と全く噛み合わない軽快な音楽だけが妙に浮ついて車内に流れていた。









 ドアが小さく叩かれて、理穂は顔を上げた。返事をすると長身の男が二人入ってきて、理穂はにこりと笑む。


「こんにちは。南さん、藤堂さん」

「壱路で良いですよ。僕たちは姓嫌いなんです」


 言いながら壱路は理穂に小さな包みを差し出した。中には少量の白い粉末が入っている。理穂がそれを受け取ると、壱路は椅子に腰を下ろして微笑んだ。


「この薬が不思議な薬です」


 怪しさ満点の説明に彼の後ろに立っていた氷川が微かに眉根を寄せるが、どこら辺をどう納得したのか理穂は何の疑問も持たずに包みを開けて、水と共に口の中に流し込んだ。喉が嚥下したのを確認して、壱路は頷く。


「これで元気になった。理穂ちゃんは治ったら何をしたいの?」

「学校に行きたいです」


 言って理穂は微笑んだ。氷川は不可解そうに眉を寄せるが、壱路は笑みを崩さずに理穂を見詰める。


「私、生まれた時から病気だったんで学校に行った事がないんです」


 あぁ、と納得したように壱路は頷いた。そう言えばそんな事を言っていた気がする。氷川も納得したように眼を伏せていて、理穂はにこりと笑んだ。


「もう元気になったんですよね」

「元気百倍、だよ」

「つっても行く学校なんかあんのか?」


 壁に背を預けて聞いていた相棒の声に壱路は彼を見やった。その視線から微かに哀れみを感じ、氷川は眉間に皺を寄せる。


「いつか行けるようになるかもってお母さんが手続きだけはしてあるみたいだよ」


 話しただろ、と続けられ氷川は「知らねぇよ」、と吐き捨てた。それから理穂を見やる。理穂は微かに身を強張らせるが、気にせず氷川は微かに笑んだ。


「楽しんで来い」


 初めてみた彼の笑みに理穂は笑み返して、鞄を持って部屋を出て行った。その姿は本当に健康な人間のようで、氷川は瞳を歪める。今更文句を言う訳にもいかず黙っていると、ドアが開いて彼女の母親が現れた。彼女は柔らかく笑みを浮べると椅子に腰掛け、深く頭を下げた。


「ありがとうございました」

「その事なんですけど、理穂さんの命はあと一週間ほど、と言いましたよね」


 壱路の優しげな笑みが微かに曇り、彼女は不安げに頷いた。瞳を伏せ、壱路が静かに口を開く。


「三日後、完全に彼女の命は燃え尽きます」


 何の感情も感じられない壱路の声音に、彼女は顔を歪めて問い返した。これは聞き間違いだと信じて縋るように壱路を見詰める。


「え……?」

「理穂さんの命は、明後日に消えます」


 壱路の顔には変わらずに笑みが浮かんでいる。しかし、声からは感情なんて感じられない。彼女の唇が微かに動き、掠れた声を生む。


「嘘、でしょう……。直してくれたんでしょう!?」


 医者は、あと一週間だと言った。しかし、もっと伸びる可能性だってあった。でも、彼はなんと言った? 生き延びる可能性は皆無だと、そう言ったようにしか聞こえなかった。


「だって、理穂はあんなに元気に……」

「これから三日間、完全に健康体です。ですが、七十二時間後反動が一気に彼女の体に現れます」


 嘘、と彼女の唇が震え、その声は悲鳴に変わった。


「嘘よ!理穂は元気になるわ!今までだって生きていてくれたんですもの、そうよ、あの子が死ぬ訳ないわ」

「徒に生きるより、元気に走り回って死んだ方が幸せだと思いませんか」


 静かに、優しげに壱路は呟いた。その言葉に彼女ははっとしたように壱路を見詰めた。笑んだ彼の顔に唇を噛み締める。


「貴方には分からないわ……大事な娘を失う私の気持ちが」

「貴女には分からないですよね。大切な人を失った僕の気持ちなんか」


 微かに彼の瞳に仄暗い色が灯り、彼女はゆっくりと顔を上げた。氷川が背を壁から離し口を開くが、しかし音にならずに息だけが漏れた。壱路は席を立つと小さく頭を下げる。


「最後まで面倒見るのが不思議屋の方針ですので、明後日……また来ます」


 それだけ言って壱路は部屋を後にし、氷川も黙って彼の後に続いた。










 大切な人は、赤い病に侵されていた。何一つ幸せを得ることが出来ずに、この世を去った。彼女は笑っていた。でも、自分は泣いていた。彼女が余りにも儚く美しかったから。生きる事の意味すら忘れてしまうような空間に住んでいたのに、彼女は綺麗に笑っていた。生と死は彼女にとって、とても近かった。もう、そんな人間を見たくない。自己満足なエゴでも、少しでも彼女のような人間が少なくなるように。


「おい」



 いきなり呼ばれて、壱路はゆっくりと重い瞼を上げた。自分が寝ていた事に気付き、無意識にほっと安堵の息が漏れる。


「大丈夫か」


 言われて、壱路は額に髪が張り付いている事を知る。随分汗を掻いていたらしい。鼓膜を心地良い雑音が揺らし、ふと窓の外に視線を移すと見慣れた事務所の駐車場だった。


「寝てた?」

「あぁ……」


 頷いて言い淀んだ氷川に壱路は首を傾げて問いかけた。氷川は顔を逸らすと、ぽつりと呟く。


「俺はこの仕事には反対だけど、お前の味方だから」


 いきなりの言葉に壱路はきょとんと彼を見やり、次いで嬉しそうに笑んだ。氷川は照れたように車を降りると、足早に事務所に向かう。


「ほんと、氷川には勝てないなぁ」


 彼の後姿を見送りながら、壱路は苦笑を漏らして呟いた。










 命が消える日、彼らは理穂の家を訪れた。昨日尋ねたところ、学校が休みの今日は遊園地に行きたいと言っていた。家を訪れると、理穂は既に準備万端で待っていた。


「理穂ちゃん、体の調子はどうかな」


 壱路が問うと、理穂はにっこりと笑む。


「元気です。あれから咳きも出ないし」

「そっか。じゃあ行こうか」


 理穂は母親に行ってきます、と笑む。彼女は微かに顔を強張らせながらも笑み返した。


「行ってらっしゃい」


 三人が車に乗り込んで出掛けるのを見送って、車の姿が見えなくなると彼女はその場に崩れ落ちた。ぽろりと頬を熱いものが伝う。彼らは理穂をちゃんと生きて連れ帰ってくれると言っていたけれど、元気な娘の笑顔を見るのはこれが最後だろう。そう思うと、零れる涙は止まらなかった。










 初めてだという遊園地に理穂ははしゃぎ、昼になる頃にはもう三十路も近いお兄さん達は疲れていた。ちらりと時計に視線を移すと、そろそろ薬の効果も切れるだろう。氷川はベンチに腰を下ろすと大きく息を吐いた。


「氷川、飲み物買ってきて」

「テメェで行け。俺はここで一服してっから」


 隣で言った壱路に視線を移しもせずに言うと彼は仕様がないな、と言って頬を紅潮させている理穂に問いかけた。


「理穂ちゃん、何飲みたい?」

「あ、私が行きますよ。壱路さんは座っててください」

「そんなに歳じゃないよ。氷川と一緒にしないで」

「同い年だろうが」

「適当に買ってくるからここで待ってて」


 理穂を氷川の隣に座らせて、壱路は人込みの中に姿を消した。氷川は無表情に紫煙を吐き出しながら人込みを興味無さそうに見やっていて、理穂はちらりと彼の顔に視線をやる。
 壱路とは正反対に見える彼はどうして壱路の傍にいるのだろう。どちらかと言うと、壱路のような人間を嫌いそうな気もするのだが。じっと見詰めていたのか、氷川が理穂の視線に気付いて視線だけを向けてきた。


「何だ」

「あ、いえ……」


 何でもないです、と言って理穂は慌てて彼から視線を逸らした。それきり黙ってしまい、嫌な沈黙が支配する。早く壱路が帰ってこないかと思っていると、人込みに視線を固定したまま煙と共に氷川が呟いた。


「幸せか?」


 その言葉に理穂は氷川に視線を移した。表情は変わらずにいるのに、その声はひどく優しい。理穂が言葉を失っていると、言葉を選ぶように氷川が言い直す。


「あのまま、ベッドの上で生きてたほうが良かったんじゃねぇか?」


 彼の言葉に理穂は眼を瞬かせた。


「そんな事ないですよ。だってあのままだったら私は独りぼっちで死んでたんです。ベッドで十年生きるより、今死んじゃってもこっちの方が幸せです」


 何の迷いもなく言い切った理穂に氷川は口元に微かに笑みを浮べた。短くなった煙草をベンチに押し付けてそのまま地面に落とす。


「遅ぇよ」


 氷川の声に理穂が同じ方に視線を移すと、三人分の飲み物を持った壱路の姿が見えた。彼は小走りに戻ってくると、笑顔で理穂に飲み物を手渡す。


「お茶で良かった?」

「はい。ありがとうございます」


 理穂は笑顔で受け取ると、さっそく喉を潤した。その姿を見ながら氷川も飲み物を受け取ると喉を潤す。


「そろそろ時間だ」


 壱路にそう耳打つと、彼は小さく頷いて理穂に微笑みかけた。


「じゃあ理穂ちゃん。後一つ乗ったら帰ろうか」

「はい」


 やや淋しそうに頷き周りを見回して、理穂はメリーゴーランドを指差した。


「じゃあ、あれにします」

「飲み物は持っていてあげるから行っておいで」


 理穂は笑むと、壱路に荷物を預けてそちらに駆け出した。その姿を目で追いながら、壱路の鋭い声音が氷川の耳に刺さる。


「残り時間は」

「あと一時間半」

「ギリギリだな」

「……なぁ」


 一人ごちた壱路にふと氷川が呟いた。普段と違う氷川に壱路はいつもの笑みに戻ると無言でお茶を口に運ぶ。


「一つ聞いて良いか?」

「どうぞ」

「お前は辛くないのか」


 予想外の言葉に、壱路は言葉を詰まらせた。
 過去の自分は無力だった。けど、今は力を得た。同じように苦しむ人を作りたくなかった。だからこの仕事を始めた。それは自己憐憫でしかないのかもしれないけれど。でも、辛くない訳がなかった。いつまでも彼女の事を忘れる事が出来ない。自分の無力さが辛くて堪らない。
 一つ息を吐き出して、壱路は微笑んだ。今までとは違う、壊れてしまいそうな程の儚い笑みで優しい相方を見やる。


「辛くない訳がないだろう。でも、僕にとって忘れる事の方が辛いことなんだ」

「……そっか……」


 そう呟いて、氷川はお茶を口に運ぶ。小さく、壱路の声が聞こえた。


「氷川も、いつまでも付き合ってくれなくて良いから」

「言っただろ。俺はお前の味方だって」


 理穂の乗るメリーゴーランドに視線を移して言うと、隣で壱路がにっこりと微笑んだ。それを眼の端で捕らえて、とたん氷川は恥かしくなってお茶を呷ってから手で口元を覆う。


「ごめん、氷川大好き……」

「……ん……」


 確認するように言われて、氷川は口元を手で覆ったまま頷いた。すると、少ししてから理穂が戻ってきた。息を弾ませた彼女はにっこりと微笑んで頭を下げる。


「ありがとうございました」


 壱路はにっこりと笑んで、氷川はぶっきらぼうに頷く。


「じゃ、帰ろうか」

「はい」


 頷いて、理穂は壱路の隣に並んだ。壱路がいて氷川がいる。この空間が理穂は好きになっていた。もし願いが叶うなら、ずっと彼らの隣にいたいと、そう思った。










 家路を急ぐ車の中で、理穂はだるそうに眼を閉じていた。時折苦しそうに咳を繰り返している。


「氷川、時間は」

「後十分くらい」

「家までは」

「このままだと十五分ってとこだ」


 壱路は頷いて、理穂の背を撫でた。理穂は微かに眼を開けて微笑む。


「私、死ぬんですね」


 全てを理解して尚、彼女は微笑んだ。壱路は何も言えずに頷き、彼女の背を撫で続ける。理穂は途切れる呼吸にやや顔を歪めながら、それでも微笑みを浮べて言葉を続けた。


「嬉しかったですよ。たった三日でも、学校に行って遊園地に行って……」

「理穂ちゃん、黙って」

「私はあのまま何の楽しい事も知らずに死ぬんだって思ってたから、嬉しかったです」


 そう言って理穂は苦しそうに顔を歪ませた。咳と共に赤い飛沫が散り、へへ、と笑む。


「着くぞ」


 急にハンドルを切ってブレーキをかけ、車が悲鳴を上げた。氷川は車から飛び降りると後部座席から軽々理穂を抱き上げ足早に家に向かう。車の音を聞きつけて、彼女の母親が顔を出した。青い顔をしている娘に悲鳴を上げかけて、慌てて口を自分の手で塞ぐが震えているのが誰の眼にも見て取れる。


「理穂……っ」

「お母、さん……ただいま」


 浅い呼吸を繰り返しながら、柔らかく笑んだ娘に彼女は涙が溢れそうになるのを叱咤して笑んだ。


「おかえり、理穂……おかえり」

「壱路さん、氷川さん……」

「なぁに、理穂ちゃん」

「ありがとうございました」


 ゴボリと嫌な音を立てて、理穂の口から赤い液体が溺れた。流れた紅が地面に落ち、土を赤黒く染める。


「私、生まれてきてよかった」

「理穂!」

「壱路さんも氷川さんも、大好きです。……ごめんなさい」


 そう呟いて、理穂は瞼を閉じた。ゆっくりと体の力が抜けていき、彼女は氷川の抱きかかえる娘に縋りついて悲鳴を上げる。


「理穂!理穂ぉ!」


 彼女は娘の名を呼び続けた。
 何度呼んでも彼女は返事をしない。眼を開けない。もう二度と、微笑んでくれる事もない。それでも、彼女は娘の名を呼び続ける。十分ほどそのままだっただろうか、しばらくしてから彼女は顔を上げた。腫れ上がった眼を擦って頭を下げる。


「……ありがとう、ございました」


 壱路が頷き、氷川は無言で家の中に入り理穂を寝かした。朝、理穂を迎えに来た時に言われていたので誰もそこを動こうとせず、一人で彼女を横たえると瞼を下ろす。人形のように笑んだままの彼女に、氷川は小さく問いかけた。


「幸せだったか?」


 答えは返ってくるはずもなく、氷川は微かに笑みを浮べると踵を返した。外に戻ると、彼女は丁寧に頭を下げた。氷川も軽く頭を下げると、壱路を見やる。壱路は小さく頷き、車に戻った。
 彼らの車が見えなくなるまで、彼女は頭を下げていた。 





-焉-

部誌に載せたままで見辛いです。
何だかんだ言って理穂ちゃんが一番可愛いです。