歩き続けてどこまで行こうか
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こつこつと響いていたのは一つ分の足音。
歩調は自分に合わせて、人よりも少し足早に。
爪先よりも少し前の地面を見つめて、小石の数を数えてタイルの数を数えて。
「あ、雨だ!」
すれ違う人々の声は耳をすり抜けて、まるで風のように無かったことになった。
ポツリと頬に当たった冷たい雫に、やっと雨が降ってきたのかと空を見上げた。
灰色の空はいつもどおりの重い色で、久しぶりに見上げた空もいつか見上げた空も同じ色をしている。
空を見上げるのは雨が降り出したときだから、同じなのかもしれない。
「雨か」
ずいぶん長いこと空を見上げていたのかもしれない。
ようやく空から落ちてくる冷たい水分の存在を認識した頃には人は皆傘をさしていた。
人がどんな顔をしていようとも関係ない。
たったひと時に身をおく場所で、ここを去るときには消える存在だ。
ここに存在している意味は、あるのだろうか。
俺はただ歩き続けて、帰る場所を探している。
どこまでもどこまでも、帰る場所に向かって歩いている。
たった、一人で。
――ずぶぬれじゃない!
それはまだ帰る場所があったころ。
雨に見とれていた俺に、家の外から駆けてきてタオルで頭を包んでくれた。
今はもう、いない人。
俺は彼女を探して、歩き続ける。
あの人のところが俺の帰る場所だから、そこに向かって。
「いらっしゃい」
あの時どうして外を見ていたかなんて分からない。
ただ、今は空を見ないし髪を拭いてくれる人もいない。
一人で一夜の宿に入り、濡れた髪を拭う。
酷く冷えた身体をシャワーで温めて、また濡れたままベッドに寝転んでも誰も文句を言わない。
俺は今、酷く自由だから。
どこにいようと何をしていようと、誰に咎められることも無い。
蔑まれようと恨まれようと、たった一夜に起こった幻のようなもの。
なぜなら、自由だから。
そうしてそれは。
それは酷く、不自由だ。
俺の歩いた道は前も後ろも何もない。
俺が歩いてきた道を知っているのは俺だけで。
俺の行く道を知っているのも俺だけで。
けれど、俺は俺のことを何も知らない。
昨日から来た記憶が正確な保障もないし、明日どこに行くかなんて知らない。
俺はきっと幽霊のようにこの世をたった一人で彷徨っている。
歩いて、歩いて、歩いて。
一体どこに行きたいのか分からなくなっても、
歩いて、歩いて、歩いて。
俺はたった一人で歩き続ける。
どこまでもどこまでも、未練を残した幽霊のように。
帰る場所に、辿り着くまで。
こつこつと響く自分の足音と、それを追うように少し早足の足音。
いつの間にか俺の歩く速度は半分以下になった。隣を歩く少年が、いなくならないように。
視線は相変わらず爪先よりも少し前を見て、でもたまには横を窺って明がいることを確かめる。
「あ、雨だ!」
「降ってきたのか」
「紫翠、早く雨宿り!」
足を止めて見上げると、相も変わらずに灰色の空。この色はいつどこから見ても変わらない。
どんな気持ちで空を見たって、変わらない。
変わったのは、俺の方だから。
服の裾を引かれて、足を止め続けることなどもうできない。
濡れてしまうと走る明に合わせても俺の歩調は早足程度。昔の歩調とそれは一緒。
「濡れちゃったね」
「拭かないと風邪を引くぞ」
宿に駆け込んで、はにかんだような笑みを見せてタオルを持ってくるのは、明。
髪を拭くのは俺の冷たい手ではなく、明の暖かい手。
二人でベッドに腰掛けて髪を拭きあって、でもそれからまたシャワーを浴びて同じ工程の繰り返し。
「紫翠、せっかく温まったんだからちゃんと布団かけないとだめだよ!」
もう今の俺は自由じゃあない。
ベッドに身体を投げ出しても文句が飛んでくるし、ふらりと足を止めてもどうしたのと理由を問われる。
好きなときに起きて好きなときに寝ることもできなくなった。
夜、明が泣くから。泣いて、眠れない、眠らないでくれというものだから。明が寝付くまで俺は寝ることができなくて。
それでも。
俺は、自由だ。
俺の歩いた道を知っている人間がいる。
昨日も明日も同じ場所にある人間がいる。
俺の記憶が正確じゃあないとしても肯定してくれる人間がいる。
俺は一人じゃあない。
ちゃんとここにいる。
「ねぇ、紫翠。明日はどこに行くの?」
「そうだな」
歩いて、歩いて、歩いて。
俺は帰る場所に向かって歩く。
もうどこにあるかも分からないようなそこを求めて、歩き続ける。
昨日を通って明日に向かって、俺は歩く。
「明日に向かって歩くんだ」
きっと空を見上げてもその色は同じ灰色をしていて。
明日に保証も無ければ帰る場所も分からない。
けれど俺たちは二人で、昨日という誰も知らない軌跡を背負って歩く。
どこまでも、どこまでも。
帰る場所が見つかるまで。
俺たちは、歩く。
歩きつづけてどこまでいこうか
(俺たちの道は、俺たちしか知らない)